親を憎むということ。

心理学系の本を読むと、だいたい
親を「嫌い」とか「憎い」とか「人生が駄目になったのは親のせい」と思うことは
逆に親にまだ執着している、甘えている証拠とか、
自立してない証拠とか書かれている。

私もよく「親が嫌い」とか「殺したいほど憎い」
と言ったりする。

でも、だからって
私はやっぱり自分が親に執着しているとはどうしても思えない。
経済的自立はしてないけど。

なぜなら、現在の自分が親を憎いと思っている訳ではないからだ。
今の自分はそんな強い感情は抱いていない。
あんまり家にいないようにしてるし、
漫画に依存する事で気を紛らわしているので接触がないからだ。
今の親に対する感情はただただ「無関心」。
要するにどうでもよい存在だ。
だから、親と距離があるので、別に憎いと腹立つこともない。
ただ、なんでそれでも「親が憎い」と言うかというと、
過去の自分を否定したくないからだ。
中学生の頃の自分は親が嫌いだった。
でも、自分が親を憎んでいることより、
多額の教育費とひどい成績で迷惑を書けていることへの親の罪悪感
の方が勝っていて、「親への怒り」の行きどころがなかった。
むしろ、親に迷惑をかけているのに親を憎んでしまったり、
反抗してしまったりする自分に罪悪感を抱えていた。
そんな中学生の私に
「親を憎むのはお前が親に執着している証拠だよ」といったらどうなるだろう。
ただでさえ、親を憎むことに罪悪感を感じているのに、
「やっぱり親を憎んでしまう自分は駄目人間なんだ。」
と落ち込みさらに自己肯定感を下げていくだけだ。
または「親を憎む自分はおかしいのだから、
どんな理不尽な嫌なことをされても親を愛そう」と
間違った努力をしてしまうだけなのだ。
それはなんか変だ。
んで、
唯一自分が今思いつく最善の言葉が
「親を嫌っても別に良いじゃん」
なのだ。
そんな私をみたら中学生の私はホッとすると思う。
大人になった(?)私が同じ価値観と持つことで
「大人になっても親を嫌いな人がいるのだから
親を憎んでしまう自分もありなのかもしれない」と
思える気がする。
だから、私は今でも親が憎いという。
嘘はついていない。
また深く関われば、憎しみは生まれるし、
無関心なだけで、好きな訳じゃないから。

でも、「親が嫌いという価値観を持つ」という言葉以外に
中学生の自分を救える方法があるのなら、
親が嫌いというのはもうやめて
その方法を使うと思う。

ただ、「親が嫌いになってもいい」という価値観は私自身がハタチ前後の頃
聞いてたラジオのパーソナリティがいっててホッとした経験がある言葉なのである。
伊集院光なんだけど、明確に親を嫌いとかは全然言ってないし、
伊集院光が親や家族を嫌いなのかはわからないんだけど、
自分の親や兄弟の悪口や行動をおもしろおかしく言ったり、
自分の自虐ネタを暴露するところが、なんか今までの私の価値観を壊してくれたというか。
「お母さんウゼえ!」とか親の悪口ネタで笑っていいんだって良いんだと思った。
親をキモイとかうざいって思うのは私だけじゃないんだって思った。
(伊集院の悪口ネタはタダ悪いことを言うんじゃなくて、「そんな卑屈なことを考えてしまう自分」
にたいする情けなさやおかしさに裏打ちされている面白さだと私は思うんだけど。)


だから、私もそんな人間になりたいと思った。
お笑いは無理だけど、
私も「そんな卑屈なことを考えてしまう自分」に裏打ちされた「親嫌い」をしたいと思った。


しかし、中学生の頃の自分に今の私が「親嫌い」を持っていても
まだ納得しないと思う。
なかなか手強い子だから、
ただ私が「親嫌い」というだけでは足りないのだ。
「そりゃあさ、あんたニートだからさあ。甘えてんでしょ?だからでしょ?」
って言い返してくるに違いない。
つまり、今の自分が「親嫌い」といったところでは
中学生の私にはただの甘えとしか解釈されないのだ。泣
だから、私は「親嫌い」という価値観を常にもちつつ、
できるかぎりでいいから、中学生の自分が納得できるような大人になれたらなって思う。
(もし、私が将来頑張っても、
自立する夢がかなわず、仮に今と同じくニートのままでも
ニートでかつ中学生の自分が納得できる人間になれたらと思う。)


つづく

仕事にやりがいを求める事は良い事?3

前回は、
夢ややりたい事は簡単に手に入る訳ではないのでは?
という事について話しました。


もう一つ言いたい事があって

そうやって努力して手に入れた夢でさえ、
決して「確かなもの」ではないということもお伝えしたいです。
私は漫画は書けるようになりました。
でもだからといって、何の肩書きもありません。
これから漫画を頑張り続けたって、
賞がとれる確証はないし、
デビューだって出来るかわかりません。

それに、引きこもっていたときにシュミレーションしたのですが、
自分が漫画家になった場合どんな事になるかをイメージをしてみました。
すると、どうかんがえても、長い間継続的に漫画を書いて暮らせるほど、
自分に才能がない事がわかりました。
なぜなら、私は圧倒的にネタの引き出しが少ないからです。
今自分が書けるのは自分自身の事や自分に近いネタです。
精神病、性的トラウマ、恋愛トラウマ、親子母子関係。
その程度です。
そんな少ないネタで、
何本も面白い作品を書き続けられる事が出来るなんて
想像できません。
しかも、引き出しを増やしたくても、
それ以外のことを勉強しようとしても、
どうしても興味が持てません。
つまり、私は仮に漫画家になれても
一発屋くらいしか出来ない才能の持ち主なのです。
今のところ一発屋にならないようにするための
かつ、自分ができる解決手段が思いつきません。
だから、私は
それなら、枯れるまで、ネタが尽きるまで、
同じテーマや書き続けよう。
掘れるところまでテーマを掘り下げてみようと思ったのです。
そして、「もう書きたいことない」と
頭が真っ白になるまで書く事が出来たならば、
そのときやっと別のテーマや物事にも興味を持つ余裕が出来るのではないか
と思いました。


だから、夢があるからって未来が確実なわけではないのです。
私がデビューできなかったら、
結局「漫画家になる」ことを言い訳にしてニートして親に甘えていた
という事実しか残らないのです。
そして今の私は、まだそれなのです。
ニートが漫画家をめざしたところで、
結果をださない事には、評価なんてされません。
だだのいい年した「自分探し系ニート」として見られるだけです。
普通の大人としては扱ってもらえません。
だから、夢があっても、
周りの人からの評価は普通のニートの方と変わりません。

でも、
「夢がなくたって、あったって一緒だよ」という気もありません。
正直言えば、夢がなかろうが、あろうが、
痛みとか苦しみは一緒だと思います。
でも、目標がある分夢を持っている人の方が、
生きやすいかもしれません。
いや、生きやすくはないな、、。
夢があったって生きやすくないし、苦しい。
ただ、夢という目的がある分
自分の身に起きた事を
少しだけ前向きに考えられる事ができるし
、死のうとも思わないかもしれません。
おそらく「夢が叶うまで死にたくない!」と
思うでしょうし。
だから、そういう意味では、
夢がない人よりは良い思いをしているのだと思います。
そこは認めなくてはなりません。



夢が欲しいけれど、見つからなくて困っている方は、
この世にやりたいと思える事が存在しない訳ではなくて、
そういう職業に出会って好きになるには時間が必要だったり、
もしくは、自分が何が好きで、何が向いてて、何がやりたいかを
まだ知らないだけではないでしょうか?
だから、これから見つかるチャンスは死ぬまでずっとあると私は思います。
これが万人に通用する理屈だとは思いませんが、
少なくとも自分はそうでした。

私はずっと感情を押し殺して、親に愛想振りまいて生きて来ました。
そうすると、だんだん自分が何を考えているのかがわからなくなるのです。
親や周りの人が何を考えているかに意識を集中しすぎて、
自分の感情を無視して生きてきたので
自分のやりたい事と親が望んでいる事と他人に期待されていることを
ごっちゃにしてしまうのです。
だから、勉強が苦手で好きでもないのに、「頭のいい大学にいってほしい。」
という親の無言の期待を自分のしたい事だと勘違いして頑張ってしまったり、(※)
でも、それは本質的には自分のしたい事ではないので苦しくてしょうがなかったり。
夢に関しても出来るだけ、親にあわせようとしました。
漫画家はみとめてもらえないから、
親の望むような
ちゃんと社員や収入がありそうな事務や公務員(をやりつつ漫画を描く)、
またはデザイナー(ホントはかなり低賃金)を目指そうとしたり。
たしかな安定した収入で自分のしたいことやれば、
親の期待にもこたえられて、自分もしたい事ができてハッピーなんて考えていた。
自分がそんな別の仕事を掛け持ちしてできるほど器用な人間ではなかったのに。
「常に頭の中には親の期待があって、それを自分がやりたいからやってるんだ」
と思い込もうとした。
就職活動もそう。
大学の進路科の人に、
「今は求人倍率高いけど、来年にはすぐまた就職氷河期が戻ってくるから。」といわれれば、
その人が私に何を望んでいるのかを察知し、
その人が望んでいる私像と私自身が望んでいる自分像を
ごっちゃにして、「ちゃんとした正社員」になろうとした。
そんな風に、
相手の期待に応えて
自分が本質的にはやりたくない事をして挫折するのは当たり前なのに
「これは私がやりたい事なのに自分は怠け者だから、続かなくて駄目人間なんだ」
「私はなにも続かない」「やりたい事がない」
と嘆いていた。
だから、
自分の感情を押し殺して、人に会わせるタイプの人は、
まず自分が何をしたいのかわかるのにすごく時間がかかるんじゃないかと私は思う。
親の期待も他人の期待もなしに
本当に自分が何をしたいかがわかって、
それを継続的に頑張って面白いと思えたときに、
やっと自分のやりたい事がみつかるんだと思う。
それが、
「働かないでニートして親にすがってでも漫画家になりたい」
というのが私の本当の気持ちだった。
これがいかに自分勝手であるかは承知の上だ。
でも、そんなわがままな自分の欲望でさえ、
もし本当にそういう風に思っているならば、自覚しないと駄目だと思う。
人は、タブーを犯さないですむ事はできるけれど、
人は正しい事ばかりを考える事は出来ない。
誰だって自分勝手。
人には欲望があるから、ズルでも良い思いがしたい。
誰かに深く傷つけられたら、その人に復讐をして、深く傷つけたいと思うはずだ。
自分の欲望を自覚しない事は
ただ自らの心の強欲さに気がつかないだけで、
結局無意識に自分勝手な事をしてしまうのだ。
(つまり、無自覚な加害)
だから、自分の勝手さ、欲望=
自分のやりたい事に気がつかなければならないと思う。
それに気がついた時に、
それを実行するのか、それをしないためにはどんな解決方法があるのかを
考える事できる。
だから、
私は働かないで、漫画を描いた。
んで、それをやってみたら、
やっぱり学校には限界がきて、
少しでもバイトして、漫画をかかないとだめだと思った。
んで、けっきょく働きつつ、
漫画を描くというのが現在の私の決めた道だ。
それは前のほうに述べた親の期待する、
「事務や公務員等何か別にメインの仕事をやりつつ、趣味で自己実現する」
と一見似ているのだけれど
そうではなくて
働かないで漫画を描くことを実行してみて、
それに限界がきて
「じゃあ、少し働こうかな」
という
一度欲望のままに生きた上で考えた結論なので、
これは親の期待でもなんでもなく自分の意志だと心の底から思える。

よって、人に気を使いすぎる方や人の欲望を最優先で考えてしまうような人で、
やりたい事がほしいと悲しんでいる人がいるのなら
それは別に本人に素質がないとか、
みつからないとかじゃなくて、
自分が何が好きで、何が向いていて、何がやりたいのか、
自分の欲望に正確に気がつけないだけだと私は思う。
すくなくとも、自分勝手に行動する人よりは
相手の欲望を優先してしまう分
自分の本心に気がつくのに、
努力と時間が必要なのだと思う。
それと自分勝手な人は、
人前で堂々と自分勝手な事をするので、
誰かが不快になったときに
「それやめて」とか相手に指摘しやすいので、
自分の弱点に気がつく事ができて克服もしやすい。
逆に、周りに気を使っているのに、
無意識に自分勝手な人は、
自覚してない分だけ、
その自分勝手さが見えにくいし、
それで誰かを不快にさせたとしても、
指摘しづらいし、
本人も理解できないので、
誰かに指摘されてもピンと来ない。
だから
有効な失敗ができないんじゃないかと思う。

といっても、自分勝手な人が好きかというと
また別なんだけれど。



※マンガ学科を受けておちて、すべりどめの低偏差値大学に行ったが、
その後もまた有名、一流大学受験や編入をしなくてはと悩み考え続けた。

仕事に夢ややりがいを求めるのは良い事?2

前回はすべての仕事にやりがいを見いださなくてもいいのではないか
みたいな事を話したんだけど、
そんな事いろいろ考えてたら、
だんだん漫画家になりたいという夢をみている自分に罪悪感がでてきて、
「うらやましい」といわれたときに
どうリアクションしていいのかわからなくなった。

別に生まれた時からやりたい事があったとか、
たまたま運良くやりたい事をみつけたとかそういう簡単な事じゃなくて、
その選択をするまでにいろいろ挫折してきたし、
少なくとも努力なしに得たものではないことだけは伝えたくて、、。


絵を書くのが好きな人って比較的多いと思うんだけど、
そういう人は1度くらいは画家やイラストレーター、漫画家
アニメーター、デザイナーになりたいと思った事があると思う。
私も実際、漫画家になりたいと思う前はゴッホみたいな画家になりたかった。
でも好きなようにかくのと、人に評価されるまでのレベルに達するまで書くのは
ぜんぜん違って、デッサンとか美術の勉強とかつまんないし、
絵が好きだからって、なかなか頑張れる訳じゃないんだなって思った。
それで、次に漫画家になりたいと思ったんだけど、
それは実は漫画を描くのが好きなんじゃなくて、
当時私はいじめられていて、辛くて、悔しく
いじめた奴らになにかぎゃふんの言わせたくて、
「大人になったら有名になって見下してやる」が
「漫画家になって見下してやる」になったのががきっかけなので、
本当はべつにやりたい事でも好きな事でもなかった。
(絵が好きだったので漫画家ならなれるのではと浅はかなことを考えただけだった)
んで、中学生になって、相変わらず漫画家になりたいとは
言いふらすんだけど、
ストーリーとか思いつかなくて、
漫画も書いてなかった。(絵はかいてたけど)
ただ勉強ができなかったから、それを慰めるための道具として
「勉強ができなくたって漫画家になれる!」
と自分の頭のなかに言い聞かせて、ずっと逃げたら、
「もう漫画家になれないなら生きてる価値がない」
みたいなところまで追い込まれてった。
でもそれでも漫画は書いていなかった。
だから、漫画家になる夢をもつことで
アイデンティティを保っていたのに、
同時に漫画が書けない自分は、ただ
漫画家というブランドにひかれてるだけで、
本当は漫画なんか好きじゃないんだろうなというジレンマに
苦しんだ。
そして
その事実に気がつくのが怖くてしょうがなかった。
そうやって「夢」にしがみつくことで勉強から逃げてたんだけど、
大学受験のときにマンガ学科がある大学を受けて、
見事に落ちて自分の実力の低さを知る事になる。
マンガ学科に入るために実技の勉強が、
いままで漫画なんかほとんど書いた事がないのに挑戦したので、
ぜんぜんできなくて、
構図もコマ割りも駄目で、
ストーリ作りなんかは普通の勉強みたいに
やった分形になる訳ではないので
机に5分以上座る事さえ辛くて
白い紙の前でストーリーを思いつかない自分に苦悩するしかなかった。
そんなかんなで、何も有意義な努力もできず、落ちて、
私のアイデンティティも失われて、
そしたらそれが無念で悔しくて悔しくてしょうがなくて。
とにかくなにが1番悔しいって
「努力したのに落ちて悔しい」じゃなくて
「5分以上机に向かって漫画の勉強をする事ができない=
努力する才能自体がない」事が悔しくて悔しくて
無念で、ショックで、それからしばらく、漫画を制作する事はできなかった。
だけど、
自分の持ってる漫画単行本を1冊ずつ2〜4時間かけて
コマ割りの意味や、読者の目の動き、台詞、フォント等の意味を
わかるまで読んで分析したりして漫画をかく以外の努力は毎日し続けた。
その作業はすごく苦痛で、大変で、
でもそんな事より、落ちた事が悔しいことの方が勝ってた。
シナリオも話がぜんぜん思いつかないから、
ストーリの作り方の本やヒッチコックの映画を本読んで
そこに書いてある課題をこなして、
でも書いても書いてもつまんない話しか思いつかなかくて、
書けば書くほど自分には漫画をかく才能がない事がわかってきて、
そんな凡才な自分が情けなくて、辛くて、
100本くらいまで書いた。
映画もシナリオ作りのために、
毎日3本くらい見続けて、
映画の名場面のイメージを頭の中に覚えさせようとした。
そんな事をずっと続けていたら
一本だけ自分の中では面白いと思える話を書く事ができた。
そしたら、今までの自分が報われるような気がした。
才能がない自分でも頑張れば書けるかもしれない。
んで、その自分が面白いと思えた作品は
ストーリー作りの本に書いてあった
面白くするためにはこうした方がよいと書かれている事を
忠実に実行した作品ではなく、
単に自分の欲望のままに好き勝手に書いた作品だった。
そんで、そのとき、
私はずっと漠然と『「面白い話」を書かなければ』ということに
とらわれていたけれど、
それより、自分の書きたいものを、
自分が納得できる作品を書いて、
自分自身が何を面白いと感じられるかということの方が大切なんじゃないかと思った。
そう思い始めたら、
漫画を描く作業が楽しくて楽しくてしょうがなくなった。
そのときやっと心から、自分のやりたい事は漫画なんだと思う事ができた。
きっかけは漫画家というブランドで選んだとしても、
それでも時間をかけて努力すれば好きになれるのだと思った。
んで、その段階でもただ良いシナリオができただけで、
漫画作品自体は書いていないくて、
その後諸事情で1年間漫画の勉強ができなくて、
去年の春頃やっと初めて自分で漫画を書いてみた。
それでその漫画で担当さんがついて、
でも逃げて、また挑戦したくて、今に至っている。
だから、漫画家になりたいと言い始めたのは小6からで
早いけど、
本当に漫画を書いて、漫画を心から好きだと思って、
漫画家になりたいと思えたのは22、3歳の頃なんです。
漫画家というやりたい事を見つけるまでに10年くらいかかってるんです。

だから、やりたい事はいきなり見つかる訳じゃなくて(そんな場合もあるのかもしれないけれど)
何かを継続してやり続けて初めて本当に心からやりたいとわかるものではないしょうか。
(別にやりがいを感じられないものにやりがいを求めろという意味ではなく、
一見楽しそうだったり、やりがいがありそうな事でも面白いと思うには継続して努力し続ける必要があるということ)
才能がないからかも知れまんが、私は漫画を描くのが好き!って胸はって言えるまでの
勉強期間はかなり苦痛でした。
すくなくとも学校でやる勉強くらい、
意味が分からなくて、
難しくて、上手く出来なかったらどうしようという不安が常につきまとっていて、
すごく辛かったです。
そんなに辛い気持ちでも継続して勉強し続けられるほど、頑張れた事に対して、
「それはあなたにとってもともとやりたい事だったからだよ」
というご指摘もあるかもしれませんが、
私が続けられたのは悔しさと、
絵を書く事や頭の中で妄想する事ぐらいしか好きになれなくて、
漫画にすがるしかなかった、、。
3につづく

仕事に夢ややりがいを求めるのは良い事?

以前から
よく「四季さんは夢があっていいですね」とか「うらやましい」と言われる事があって、
それ自体はやっぱ嬉しくて、
確かに自分も「夢会ってよかったな〜」って事がよくある。
んで、ふと考えたんだけど、そこから、私はニート+夢がない(やりたいことがない)人から見たら
やな存在なのかなと思った。
よく「自分には夢があるから大丈夫!」的な事言ってしまうし、
ホントは「夢」に依存して、ニートの現実から逃げてる駄目人間の可能性大なんです。
それでこれは知り合いの方から聞いた話ですが、
「過度に仕事に自己実現ややりがいを要求するのってちょっとしんどいんじゃないの?」
という意見がありました。
確かに、すべてに自己実現を要求するのキツいと思った。
たとえば、昔就職試験を受けていた事務の仕事。
すっごい事務が好きな人なら別だけど、
そうじゃない限り、コミック「グッジョブ」みたいに
「事務仕事だってクリエイティブ!」なんて死んでも思えない気がする。
だから、例えば映画監督とか作家とか編集者とか企画営業とか、なら
やりがいや自己実現が可能な気がするけど、(といっても、多分やりがいのありそうにみえる仕事でも
ホントは自己実現なんかできなくて結局は普通の仕事と同じ側面があるではと思う。)
やっぱりやりがいを見いだせない仕事のほうが圧倒的に多いと思う。
んで、食っていくためには働かなきゃいけなくて、
ただそれだけなのにやりがいを強制させられると苦しいんじゃないかと思う。

でも、テレビとかみてるといかにもやりがいがありそうな仕事人にほうが
目立ってしまう気がする。
実際自己実現系の仕事術とかは見てて楽しいんだけど、

自分自身もテレビを見ていると、
やりがいのありそうな仕事をしている人の理屈と
普通の仕事の理屈が一緒と錯覚してしまうことがあって、
何でもやりがいを求めなくてだめだ!と思いこんで
よく辛くなった。
夢をドロップアウトした人も同じで、別にドロップアウトしたからといって
負け組扱いされる筋合いなんてなく、おそらく本人が自分の意志で
「向いてないな」とか「無理」とか判断して別の道を選んだのだから
すばらしい事だし、
もし自分がプロの漫画家になれないと
判断したら、(「仮」のはなしです!まだまだ私はあきらめてないです。)
それは自分の決めた事だから
負け組とかは自分は思わない。
でも、たとえば同じ漫画家志望のひとから、
あいつは負け組とか思われるのはやっぱ嫌だなって思う。
夢を持ち続ける事が必ずしも、美しいとは限らないと思う。
例えば、なんの努力もせずに夢に執着してるだけで
あきらめないのなら、それはただの怠惰だ。
それなら、現場で現実にぶつかって、
「自分にはむいてないからやめよう」とか
「もっと自分に向いてる事をやってみよう」とか
思う方がよっぽどカッコいいと思う。

昔は趣味で自己実現してる人とか、
格好悪いとか思っていたんだけれど(恥)
オールニートのゲスト交渉とかでそういう人に出会って
実際みたら、私の想像とは違って
生き生きしてて、すごいカッコよかった。


だからやりがいとか自己実現
仕事に限定しなくても良いという意見は確かだと思う。
趣味での自己実現だって
それはメインの収入が違うだけで
本気でやれば知名度とかやってる仕事(?)の内容とかは
趣味でやってる人を見て
あんまり変わんないんだなって思った。

だから趣味で自己実現するのはやっぱり全然アリで
、自分自身もそういう道もあるのかなと考えています。
ただ、まず仕事で自己実現できるのかどうか確かめないと
(挫折して)趣味でする気にはまだなれないなと考えています。


2につづく。


新Good Job~グッジョブ(1) (KC KISS)

新Good Job~グッジョブ(1) (KC KISS)

本当はドラマ版見ただけで、
コミックスは見た事ないんだけど。
あと、ドラマ自体は面白いと思います!

丸山氏が書いたあまね丸像

オールニートニッポンのスタッフの丸山さんがあまね丸君の似顔絵と私のマンガの模写を描いてくれました。


↑あまね丸君の似顔絵  

↑丸山さんの自画像

↑キキ 似てる。

↑猫 写真を見ながら模写



漫画「白イ」の模写

自分の漫画の模写を書いてくれたのがうれしくて、
もっと書いてといったら
「飽きた」と言われてしまいました。
無理やり書かせてしまってすみません。
楽しかったです。

私が自殺しようとしたきっかけ

正式な記事がどこにあったか見つけられなかったので、匿名にするがIさんの話。


Iさんはホームレスの支援をやっている。ホームレスは家がなくて、
お金もないから医療費も払えないし、食費も毎日たべれるのか謎だし
夜中襲われたら命も危ないし、多分私の想像以上に大変だと思う。
んで、Iさんはそんな大変なホームレスの方々をいろいろ助けていたのだけれど、
あるとき男性のホームレス数人が、
女性(多分この方もホームレス)を集団でリンチして輪姦するという事件が起きた。
それをきいたIさんはショックをうけてしまったとのこと。

そんな記事があって、その話を知り合いから聞いて、
すごく印象に残っていたので、記した。
私はずっとどこかで、被害者は美しいという幻想があった。
被害者は弱くて、優しい人間で、感性豊か、実は頭がいい。
それ故に、
いろいろずる賢い強者に暴力を振るわれている
何の落ち度もない絶対的な存在。守られるべき存在。正しい存在。
そんな幻想があって、いつか私も被害者になりたいと常々思っていた。
クラスで病弱だったりするひとが特別扱いをされているのをみると
私もしてもらいたいと思った。
何度か私もしてみたが、なぜだか私の場合は誰も同情してくれなかった。
(本当は『不幸』じゃないのかもしれないし、
分かりやすい不幸ではなかったのかもしれない)

リストカットをしても、
親は同情してくれずものすごいあきれた顔をされただけだった。
大学3年のとき、人間関係の問題もあって、
大学通学が困難になってしまって、
でも、それを親がみとめてくれるはずもなく、
自分が生き延びる選択肢がなくなったとき
私は死にたくなった。
死ぬのは怖い。通学は無理だから、
親には迷惑をかけるので生きている価値がないし、
(実際親は姉が、大学を休学した時姉をキチガイ扱いをしたし)死ぬ以外選択肢がなかった。
でも、やっぱり死にたくなくて、
じゃあどうしたら、生きられるかなって考えたときに精神科が浮かんだ。
私が病気なのかはわからない。
でも、他に思いつかなかった。
精神科も自分一人で探した。
死にたくて死にたくて元気がないけど、
うちの親が精神科なんて許してくれるはずがない。
「大学に行けないから死にたいなんてそんなのは甘えだ」と
いわれて傷つけられると、死にそうだったから、
ネットの情報をたよりに評判の良さそうな病院を見つけた。
片道1時間半かかったけど、
適当な病院でひどいこと言われてメタメタにされるよりマシだと思った。
とにかくなんとしても生き延びなければ、
なけなしの自分のお金を使って、病院に言った。
小さな病院でドアを開けると、
受付と目の前に診察をまっている患者さんたちが、
沢山座っていた。
受付の看護婦さんはちょっと怖そうなおばさんだった。
緊張したが「あの、診察お願いしたいんですけど」と勇気を振り絞ると、
「どんな症状ですか?」といきなり聞かれた。
私はその時精神科が初めてで、
てっきり症状とかの説明は他の科の病院みたいに
紙に書くものだと思っていたので激しく動揺した。
後ろに他の患者さんが沢山居るのに、
「死にたいという考えが頭から離れないから来ました」なんて恥ずかしくて言えない。
どうしよう。
とにかくその激しく動揺した感じは看護婦さんにも伝わって、
とにかく何か言わなきゃっておもって
「ふ、、、不眠です!」って適当な事を言って
だいぶ怪しい感じになってしまった。
そしたら、看護婦さんは「不眠だから、精神の病気とは限らないでしょ」と笑い、断った。
(今思えば、家から遠いので断られて良かった)
それで、私は生きる道たたれた気がして絶望して頭が呆然とした。
でも、否定されてはここに居る訳にもいかず、病院を出ようとした。
そのときだった。
私が病院を出て、病院のドアを閉めた瞬間に「がははははは」と
一斉に笑い声が聞こえたのだ。
私が看護婦と会話していたとき、
私の後ろで会話を聞いていた患者達の声だった。
私のやりとりがどうやら面白かったらしい。
多分、大した病気でもないのに精神科に来て馬鹿なやつだと思ったのだろう。
ただ、とにかく私はその笑い声を聞いた瞬間にいきなり身体が重くなり、
目から涙が止まらなくなった。
片道1時間半かかるのにその最中ふいてもふいても涙が止まらなくなった。
とにかく辛かった。
なにが辛いって、すごく傷ついたのにそれは全部自分の甘えのせいで
誰のせいにもできなかったのが辛かった。
大学に行けないのは自分のせい、
わざわざ遠くの病院に来てしまったのも自分のせい、
症状の説明のときに訳の分からないことを口走ってしまったのも自分のせい、
そしてそんな私を笑った患者達は、今心の病で大変な思いをしている方々なので責めてはいけない。
彼らは被害者なのだから。
そんな考えが頭の中をぐるんぐるんまわって、
私が正当に泣く理由が見つからなくて、
泣くべきじゃないのに目から涙がぽとぽと出てきて意味が分からなかった。
被害者は美しいもの。
被害者は弱くて、優しい人間で、感性豊か、実は頭がいい。
そんな彼らにまで、私は最後の救いの存在を否定されてしまった。
もう本当に私には生きる価値がないと思った。
家に到着するまで、足が重くて、涙が止まらなくて、
あんなに家までの道のりが遠いと思ったことはなかった。
家につくとちょうど玄関に父が居た。
ずっと、涙が止まらなかった目は多分はれているはずだ。
なのに、その不自然な様子にいつも気がつかない父親なんか死ねと思ってしまった。
そして、自分の感情を押しつぶして、
泣いていた目と歪んでいた口をむりやりつり上げて笑って
「ただいま」と演じる自分が死ぬほど気持ちが悪かった。

そして自殺を決行した。
洋服ダンスに本で覚えた丈夫なもやい結びでロープをかけた。
死んで楽になってしまいたかった。
なのに、死にたいのに、首にロープをかけた瞬間、足がびっくりするほどけいれんした。
自分で動かしている訳じゃないのに、
吃驚するほど身体が震えている…。
怖いのだ。
死ぬのが怖い。一瞬で死ねるなら良い。
でも、もし、下手に生き残って下半身不随とか脳障害になったら怖いし、
死ぬ前の一瞬の苦痛がとにかく怖かった。
死ねない。私にはどうしても死ねなかった。
生きている価値がないのに。
ロープの下でうずくまって私は考えた。
死ねない、、死ねないのに生きる道が見つからない。
どうしても生きていると親に迷惑をかけしまう。
でも死ねない。
その瞬間一つの考えが浮かんだ。

自殺するよりは親に迷惑をかけてでも生き延びた方がましなのではと。
人に迷惑をかけるから死ぬってなんか変だ。なんで死ななきゃいけないの、、?
その瞬間生き方をかえることにした。


いままでは私は駄目人間だから、せめて迷惑をかけないようにとおもって、
自分が何のために生きるかの優先順位の1位に人に迷惑をかけないことにしていた。
でも、人に迷惑をかけないで生きることって本当にできるのかな。
人はだれでもなにかしら迷惑をかけている気がする。
それにその為に死ぬなんてなんかおかしい。
でも、やっぱり迷惑は迷惑で、良いことではないのでできるだけかけないようにはしたくて
だから、
自分が生きるための優先順位の1位を自分の幸せのためにして
2位を人に迷惑をかけないことにした。

そしたら、いままで背負ってきた肩の荷がすこし減って、気分が軽くなった。
ああ、わたし自分のために生きて良いんだって思った。
そしたら、身体から力がわいてきて、物事も少しだけだけど、
自分の頭で考えられるようになった。
そうなった今、冷静にあの精神科の出来事を振り返ると、
私は少しぐらいは私を笑った患者達にむかついても良いんじゃないかと思う。
心の病、、きっといろんなことを抱えて大変だと思う。
もしかしていじめられたのかもしれないし、
親に虐待されて、そうなったのかもしれない。
とにかくなにかしら辛い思いをしているのだ。

そして、私を笑った理由は多分こうじゃないかと思う。
被害者というポジションはものすごく曖昧でいつ崩れるかわからない。
心の病ならなおさらだ。分類が曖昧すぎる。
何が病気で何か正常かの境界線なのかよくわからない。
でもとにかく、精神科に通わないことには患者という被害者のラベルはもらえない。
だから、患者にしてもらえるように、
もし自分が元気なときでも、医者の前で病気を装わないといけないし、
自分自身もたまに自分が本当に病気なのか不安になる。
だから、自分が病気だと正当化したくて、
心の病気なのか曖昧なひとがいるとその人を笑うことで
自分が病気であると思いたいんじゃないかと思う。
(と、これは仮説なので、今後かわっていくかもです)
自分が被害者になって援助を受けるために必要以上に病気っぽさを
装ったりすることは悪いことじゃないと思う。

むしろ正しいとさえ思う。
何をするにも、とにかく助けてほしいときは
過剰ってくらいこれは被害妄想ってくらいかわいそうな人のフリをしないとだれも助けてくれないから。

私もそうだ。
私は自分の幸せのために生きているから、
どんなに些細なことでも傷ついたり気になったことは主張する(場所は選ぶ)。
そうしないと、何をしても傷つかない平気な人ということにされて、
我慢しないといけないことが増えてつらくなるから。
だから、それは多分正しいことで、
でもこれは自分への戒めとして、(私も被害者的な面もあると思うので)
いろんな暴力や病気に苦しんでいる人対して思うことがある。

まず、第一に被害者は救われるべき存在である。
でも被害者はその弱さゆえに時に加害者になる
と思った。

私もいろいろ被害体験を言ってる分、何かしら加害者だと思う。

そして、私は、覚えている加害体験に関してはいつか向き合おうと思う。
自分がどんなことをして何が悪かったのかちゃんと人に説明できるようにしたい。
せめて自分だけは加害体験にも目を向けられるようになりたい。
こんな考え方窮屈かもしれない。
過去は過去、今は今で生きれば良いのかもしれない。
でも、たとえば、イジメの話。
私は昔いじめられていた。
私の前にいじめられていた女の子Yがあまりのイジメのひどさに
転校していってしまったので、いじめられ候補第2位の私が的になった。
それでしばらく私がいじめらていたんだけど、
運良くあたらしく転校生が現れて、
的がその転校生のSにかわった。
その時、私は自分がいじめられていたのにもかかわらず、
Sをいじめた。というかみんなと一緒に悪口を言った。
今思えば、またいじめられるのが怖かったのかもしれない。
だからやってしまったのかもしれない。でも、それでも、
その時私は心の底からSをきらった。差別した。自分もいじめられっこだったのに。
しかも、私は私の前にいじめられていた女の子Yも差別していた。
いじめられてる時助けるフリとかしていたけれど、
本心ではYを気持ち悪いと思った。
今思うにそれは、
女の子Yと自分の顔が似ているとみんなに言われて、
んで、じゃあ次にいじめられるのは自分だって無意識にわかってて、
それを認めたくなくて、Yを軽蔑することで、自分は似ていないから、
いじめられはしないと思いたかったんだと思う。
それでも罪は罪だ。
だって、
いじめられた本人はそれだけで人生にかなりの悪影響やトラウマを植え込まされてしまったのに、
「私もつらかったんだから、いじめたのはしょうがなかった」
で気がすむと思う?
学校生活を台無しにされたのに。
他でもいえることだ。
娘に暴力をふるう母親がいるとする。
娘はそれに耐えたけれど、いろいろ心的障害がのこったとき、あの時本当はつらかったと母に告白する。
そのとき、母は言う「でも、私も辛い思いをしてたのよ(だから責めないでという意味合い)」
と娘を否定する。
おそらく加害者である母もまた別の人に暴力をふるわれたなどの被害体験があるから
加害してしまうのだ。被害者は加害者なのと同時に、加害者も被害者なのだ。

それで良いの?
だからせめて、覚えている加害体験はちゃんと、いつか整理して、
誰のせいにもせず自分が加害したことを認識しようと思う。
心に止めておくことがけして償いになるとはおもわないけれど、
加害体験はおぼえていることが自体がまれである。
自分に都合の悪いことなのだ。忘れた方が良い。心が安定する。
いっそのことなかったことにした方がラク
なので、わすれて加害体験をなしにできてしまうのである。
だから、せめて、人に「私はあなたに○○されて傷ついた」と
相手に告白されたときはちゃんと向き合おうと思う。
辛い作業だからすぐには無理で時間はかかるけど。
自分だけは誠実な被害者であり加害者でありたい。
こんな考え方はやっぱり歪んでいるかもしれない。
なんかこんなにきつきつの考え方をしているといつか、
加害に向き合えない弱い自分に出会って落ちていくかもしれない。
それでも、考え方を変えられないのは、私を笑った奴らが憎くて憎くてたまらないからかもしれない。
つまり、私は私が自分の加害体験を許さない代わりに、お前らも許さないからな。
ということなのだ。
こんなゆがんだ考え方かえられれば楽なのに。
自分と向き合ってばかりでも、窮屈で辛いだけなのかもしれない。

でも、それでも、私は
ただ、自分の辛い体験だけをいうひとより
同時に自分の罪も少しでも向き合っている人の方が人間として好きだ。
信頼できるし、魅力を感じるし
私自身も人を嫌ったり意見する時は
自分の罪も同時に意識できるような人間になりたい。
って一番出来てないのはわたしなんだけど。

やっとスタート地点にもどった!

ちょっとずつではありますが、
日記をかく余裕を持つことができるようになりました。
ですので、前のようにほぼ毎日という訳にはいきませんが更新できたらなと考えています。
やっぱり頭の中でなにか考えるより、文字に変えていったほうが
頭が整理できるので。

前の日記で、忙しすぎて何も出来ないので、
自分の今の生活スタイルを改善するといいました。
それで、私は学校とイラストの仕事を辞めました。
学校の方はかなり早い段階でやめる事を決めていたのですが、
これを周りの人にいうとなんか勘違いされそうなので、
ちょっと様子をみていました。
勘違いというのは、
私がオールニートをやるために、学校をやめるとか、
思われるのが嫌だったからです。
ただでさえニートなので、、
周りの人に誤解を招きそうだし。
でも、私にとって学校をやめる。=オールニートに依存する
ことでは決してなくて。

確かに
バイトもしていないし、編集者にも会ってないので、
交友関係があそこしかなくて、
いないと不安定って思う時はあります。
でも、それでも、じぶんの為に離れた方がいいと
判断したら離れる気だし、
私があそこにいるのは今は別に
無理に離れる必要性を感じないからです。

もっともニート関係以外の交友関係も広げる必要性はあると感じております。

んで、イラストの仕事の方も
自分の実力不足で、一枚を完成させるのに、
リテイクを含めて、2.3日かかって、そんななかで、
500円〜2500円なのは、
やっぱりキツくて。(7000円位頂けるのもありましたが。)
といって、高額で交渉できるほど今実力がないし、
直接漫画家になることにつながる訳じゃなくて。
んで、仕事が増えればふえるほど
まんが制作する時間は減ってって。
だから、漫画家志望の人がイラストの仕事する事自体は悪い事じゃないんだけど、
私の場合はまず、まんがで賞とれるくらい実力をつけてからじゃないと、
ただ、漫画家になるのがおくれるだけで意味ないんじゃないかと思った。
この1年間色んな人に出会えて、
昔に比べたら、人脈も大分増えたんだと思うけど、
結局私は所詮ニートで何も肩書きがなくて、
やっぱり相手に本質的に信用されないと思った。
それは私が自分自身がニートであるくせに
同じニートの人達を信用しようとしても、
どこかで懐疑心を持ってしまうのと同じ。
ニートが間違っているとは思わない。あっているとも思わない。
ただ、「働いている人は偉くて、無職の人はおかしいみたい」な考えが多数派で、
そんな価値観のなか無職でいる事は結構精神をすり減らすので、
悪気が無くても劣等感をもってしまったり、
変な行動をとってしまうのでお互いどこかで警戒しあっている。)

だから、私には人脈を広げるより、
まず人から信頼されることや肩書きが必要だと思った。
それが私には漫画で賞を取る事だから
それを頑張ろうと思った。
だから、学校もイラストの仕事も辞めた。
仕事の方は、学校を辞めた段階では、
まだまだ残ってて、
生まれつきのニート体質で
ミスばっかで迷惑かけて
ああ、もう投げ出したいって思ったけれど、
ニートだからこそ、
失敗や過ちの後片付けは大切で、最後まで投げ出さず頑張った。
そうしないと結局1人前の人間と見てもらう事はできないから。
仕事によっては、実力がないのに、
半年かけてもできないような大量の仕事を受け持ってしまって、
不可能だと思った時、勇気を出して
自分から相手にその事を説明した。
仕事をやりきる事は大切だけど、
自分には出来ないことをちゃんと相手に伝えて
「断る力」も身につけないと、
本質的に人に信頼される事なんてないと気がついたから。

んで、今後のことだ。
やっぱり、バイトしながら漫画をかくという道がスタンダードだと思った。
でも、私が人が怖くなったり、外に出れなくなった原因の一つはバイトなので、
そう簡単にはうまくいかないと思う。
でも「くじけずに頑張る!」という自信もなかったりして苦笑
だから、将来がかなり不安。
だって、何年間も引きこもっていた人がいきなり、
「おれは変わる!これから毎日働く!!」と言ったところで、
いままで人間関係からも、仕事からも、体力からも逃避してきた人が、
いきなりバリバリ働くのはハードルが高すぎると思うから。
やっぱ、バイトするにも、どの職場が自分に向いているかを、
ちゃんと見極めなくちゃいけないし、見極めた後でも、
最初から週5とかじゃなくて、最初は1日とか2日とか
低いハードルから超えていかないと無理だと思うんだ。
だから、私も無理な計画はやらず、
親と交渉して、
バイトが出来るようになるまで、
お金の援助をしてもらえるようにした。
親にはやっぱり恨みを感じていて、
ホントは話すのもいやで、
吐き気を催すがら、大変だったけど、
手紙でなんとか交渉出来た。
だから、もし失敗してものたれ死ぬような事はない。
自分の生活を生きやすくするために
親と交渉していきやすい環境を確保することも戦略としてはありだと思った。

バイトの職種はやっぱりできれば漫画のアシスタントやりたいな〜
などと、甘っちょろい事を考えていますが、
この前、またプロの漫画家さんのところでアシスタント体験をしたら、
ミスばっかで迷惑をかけて、結局使い物になりませんでした。
んで、わたしぜんぜんだめだなっておもって、
その職場にいる別のアシスタントの方から、
技術面でのお話を聞きました。
それで考えた結果、その方もアシスタントになる前に、一ヶ月くらい
家で技術の勉強をしたというので、
わたしもちょっと技術の勉強をしようと考えています。
というか、今やってます。
んで、きりのいいところでやめて(私は漫画制作しながらやりたいので2ヶ月くらいかな〜?)、
自分でアシスタントの(特に仕上げ作業)求人探して、
現場の技術を盗む努力をして、頑張って、
ちゃんとお金もらえるレベルのアシスタントさんになれたらな〜って考えています。
(背景がある程度かけるようにならないと多分プロのアシスタントとは言えない。)
んで、やっぱ上達しなくて、
私にはアシスタントが向いてないなあ
っておもったらまた別の今度は普通のバイトを探してみようと思う。
そうやって、挫折したら、挫折したで、その時々で考えていこうと思う。
だって、今、不安になっても起きる時は起きるし、
実家暮らしなので、親は嫌だけど、飢え死にはしないし
今はただ目の前の事に全力で取り組むしかないから。

んで、まんが制作の方ですが、やっと仕事も終えて取り組めるようになりました。
まんがが書けない間に友人や知り合いがデビューしたり、賞とったりして、
「ああ!あたし漫画もかけず、漫画と関係ない仕事して(イラストの仕事)何やってんだ〜!!」
って、悶絶して辛い悔しい思いをしていたけれど、
仕事を投げ出して、漫画をかいてもそれはそれで私は自分に誇りがもてないので、
まんが作業をストップして、
仕事を最後までやった事は後悔してません。
「私は途中で嫌になった仕事でも最後まで、逃げずにやることができる人間なんだ」
という自信になったから。
だから、漫画家目指してもう1年経って、
まだ賞すらとっていないけど、
これからスパートをかけます。
でも、やっぱり周りの人は当たり前に賞をとってて、雑誌に載ってて
単行本だしてて、自分がちっぽけに見えて、
つうか、実際ちっぽけで今かなり死にたいです。
一刻も早く、漫画家になりたいです。
でも、焦っても何にもならないので、私は私なりに頑張ろうと思います。

それで本題のネームですが、
ずっと仕事と学校で、漫画描けなくて「描きたい〜!」
って欲求がすごかったせいか、今のところ
めちゃくちゃ楽しいです。(だんだん地獄に変わっていくのかしら?汗)
起承転結の一通りのエピソードをいれた第一稿目のネームはできました。
しかし、ほんと初期の段階で、コマ割りも台詞の位置も意識してない感じで
ネームというより、まだ絵コンテの段階であり、
その上にブログにのせても解読不能だと思いますので、
もうちょっと人に見せられる段階まで治してからにします。
(しかもめっちゃ字が汚い。)
今はそのネームの第2稿目の中頃まで終わった段階です。
一回目のネームは起〜結のシナリオを順番通りに漫画にする感じで、
書いていたのですが、
やっぱりそれだと感情移入できなくてつまんなかったです。
んで次の2回目、今度は書きたいシーンから書いていったら、
これが良くて、上手く感情移入できる感じで書けるようになりました。
こんな感じで何回か書き直して、
ある程度、人に意味が分かるネームになったら、
アップしようと考えてます。

あと、ブログ休んでいる間、書きためた日記を
ここ1週間くらいアップしますが順不同なので、内容がかぶったりしてます。
すみません

それでは。