異常な人間宣言です。

私の死の観念は狂っているので、
ちゃんとした死の観念を持っている方は近づかないでください。
私は軽はずみに死を口にするのであなたを傷つけるでしょう。
前は建前は良識のある人のフリもしてきましたが、
(実際、本当に常識のある人になりきれてるかはまた別問題でございます)
どうやらそれは、
最終的には相手にも私にもまったくメリットがないみたいです。
なのに、なんでそんなことをやっていたかというと、
私がどこかで自分は正常な人間であると思いたかったからですね。
ちなみに、前1月の日記で書いた「怪物」とはそれのことです。
「自分は正常と思ってしまう」と
無意識(?)に人に暴力を振るってしまうんですよ。
そんなのはもうやめます。
正常な人のフリはやめて、
異常な人間は異常な人間らしく行動します。
だから、暴力はなるべく無意識にではなく「意識的」にやります。
(とは、いっても生きていかなきゃならんので、全員には無理ね、、
そこらへんはずるく卑屈になりますよ。
完璧にやると自殺に追い込まれますから)
んで、私の死の観念のどこが狂っているかというと、
別に死というものが悲しいとか重いとか思わないんですよ。
だから、軽い感じで、親にも死んでほしいと思ってしまうし、
相手に対しても「私なら殺すね、そんなやつ」と軽はずみにいいます。
私自体、生きてても死んでてもどっちでもいいです。
生きてるのは漫画があるのもあるけど、
単に死ねないからです。
死ぬのが怖いんじゃなくて、
痛いのが、苦しいのが、無駄に生き残って障害が残るのが嫌なだけです。
(死の観念が薄い分、痛みに対しては比較的敏感です。
仮に自殺した人がいてその人が死んだこと自体には何も思わなくても、
苦しんでしんだなら、悲しい気持ちになります。)
だから、親が死んでも多分なかないし、
お墓とかも私はなぜいない人のためにわざわざこっちの生きる時間使って
弔わなければならないのかわからないし、
自分が仮に自殺したり、事故で死んだりしても、
悲しまれても喜ばれてもどっちでもぜんぜんかまわないんです。
悲しまれても別にうれしくないです。ただ生きて死んだそれだけです。
死んだ後ゴミのように捨てられても、
もうそこに私の魂はないのだから、別にどうでもいいですよ。
そういう死の観念を自分にも相手にも私は強制して傷つけるので、
どうか常識のある方は近づかないでください。
ちょっと前まではそういう歪んだ価値観直すべきかなと思ってたんですよ。
でも、なんかさ、よくよく考えてみたんですよ。

私も相手に傷つけられたら「傷ついた」とか
「嫌い」とか「ムカつく」とかさリアクションとりますよ。
んで、それは相手にも言えることで、
私のした行動、発言に対して、
腹が立ったら、「やめて」「うざい」「むかつく」とか
言っていいと思うんですよ。
ただね、私が言いたいことはね、
相手のしたことに対して、なにかリアクションをとることは
問題ないと思うんですけど、
自分の主張が正しいとか正当だと思い込んでやるのはいかがなものかと思います。
(私の価値観もゆがんでいるけど、お前の価値観がゆがんでないとでも
思っているのでしょうか?)
少なくとも私は嫌いだし、自分もやりたくないし、
相手にされたら、
他に相当なメリットがない限りうざいと感じます。
つまり、それはどういうことかというと、
たとえばね、
「四季さんに○○されて傷ついた!」
「四季さんの○○な行動ってどうなのよ?」
「四季さんキモい」「うざい」「四季さん無能」
「こっちくるな」「嫌い」「顔が不細工」「仕事の邪魔だ」
これらは私の中では納得できます。
なぜなら、これらはその本人が感じた感情だから。
嫌だけどしょうがねーよ。
受け入れるしかねーよ。
それが現実だもの。
どう感じるかは本人の自由です。

しかしですよ
「○○といわれて傷ついたから、
お前のその考え方を治せ」
「お前は○○と考えているに違いない。○○するべきだ。」
「今俺を笑っただろ、訂正しろ」
類のもの。
勝手に人の心を本人でもないものが定義する類のもの。
強制するもの。
その人自身がすばらしい方だろうが、
人の心理に詳しいやつだろうが、
実際最終的には正しかろうがですよ、
善意でいっていようがだろうが、
そんなことをこっちが受け入れる筋合いはないんです。
影で言ったり、思うことは自由です。
しかし、本人の目の前で言われれば、
その言葉に違和感があれば
(他人が勝手に私を見て勝手に決め付けた私の内面、深層心理についてね)
全身全霊で反抗いたしますよ。

以前は、「本当にあたし治したほうがいいのかな」とか
「あたしが間違っているのかも」
とか考えていましたが、
気がついてしまったんです。
その類のものってさあ、
その発言が正しい間違ってるって問題より、
私の歪んだ価値観で他人を傷つけたっていうより、
単にさ、
あたしが発言したこと、
もしくはあたしが表現したことでさ、
その人本人の中にある傷口やコンプレックス、願望
を刺激させてしまった現象ってだけのことなんだよ。
つまり、それは受け取った側の心の問題だってこと。
もちろん、私も悪いよ?
すき放題言ってるもん。
自己顕示欲丸出しでさ、そんないいぱなしの自分が
そのまま許されていいとも思わん。
だから、
相手に「お前とはもう話したくない」「イヤ」「むかつく」
とか本人の気持ちを言われたらちゃんと聞いたほうがいい。
ただ、私が言いたいのはさあ、
だからといって、
相手のコンプレックスや相手の個人的な傷口や願望(※1)まで
背負う義務はないんですよ。
自分をかえる必要はないんです。
相手の傷口は相手の問題。
私の傷口は私の問題。
最終的な意味では個人で背負っていくしかない。
医者でもねーし、カウンセラーでもねーし、
そんなとこに気を使っても、
お互いを甘やかし馴れ合い傲慢な態度になるだけでしょ?
ここ(外界って意味ね)は病院じゃねんだから。
それで、優遇して、いったい何が解決するのかい。
傷口が癒されるわけでもないし。
だから、私は
もう相手の傷口に振り回されないように、
私の心を勝手に定義するもの、強制するもの
=本人が正当性があると思い込んでやるもの
は受け入れません。
私の権利をそして、
生き延びるために言葉の暴力を振るい対抗します。
すくなくとも仕事以外では。



※1願望っていうのは、例えば私の場合親。
うちの親が私にやった加害行為の数々はですよ、
本当はいろんな事情があってやってるわけですよ。
でも、単純に親を憎みたい場合、そんな親の人間らしいところをみてしまうと、
私が単純に怒りを放出する時に邪魔にになってしまうんですよ。
だから、あえて親の事情とか深く詮索せず、
「うちの母親は私に悪意を持って自覚的に暴力をふるった単純な悪人だ」と
思いたいわけです。
相手を単純な悪い相手にすること
相手の性格、行為だけに原因があるとすれば葛藤せずに済みますから。
要するに単純な敵味方の関係を作って自分が傷つくのをさけたいわけです。
願望とはそういう事。