親を憎むということ。

心理学系の本を読むと、だいたい
親を「嫌い」とか「憎い」とか「人生が駄目になったのは親のせい」と思うことは
逆に親にまだ執着している、甘えている証拠とか、
自立してない証拠とか書かれている。

私もよく「親が嫌い」とか「殺したいほど憎い」
と言ったりする。

でも、だからって
私はやっぱり自分が親に執着しているとはどうしても思えない。
経済的自立はしてないけど。

なぜなら、現在の自分が親を憎いと思っている訳ではないからだ。
今の自分はそんな強い感情は抱いていない。
あんまり家にいないようにしてるし、
漫画に依存する事で気を紛らわしているので接触がないからだ。
今の親に対する感情はただただ「無関心」。
要するにどうでもよい存在だ。
だから、親と距離があるので、別に憎いと腹立つこともない。
ただ、なんでそれでも「親が憎い」と言うかというと、
過去の自分を否定したくないからだ。
中学生の頃の自分は親が嫌いだった。
でも、自分が親を憎んでいることより、
多額の教育費とひどい成績で迷惑を書けていることへの親の罪悪感
の方が勝っていて、「親への怒り」の行きどころがなかった。
むしろ、親に迷惑をかけているのに親を憎んでしまったり、
反抗してしまったりする自分に罪悪感を抱えていた。
そんな中学生の私に
「親を憎むのはお前が親に執着している証拠だよ」といったらどうなるだろう。
ただでさえ、親を憎むことに罪悪感を感じているのに、
「やっぱり親を憎んでしまう自分は駄目人間なんだ。」
と落ち込みさらに自己肯定感を下げていくだけだ。
または「親を憎む自分はおかしいのだから、
どんな理不尽な嫌なことをされても親を愛そう」と
間違った努力をしてしまうだけなのだ。
それはなんか変だ。
んで、
唯一自分が今思いつく最善の言葉が
「親を嫌っても別に良いじゃん」
なのだ。
そんな私をみたら中学生の私はホッとすると思う。
大人になった(?)私が同じ価値観と持つことで
「大人になっても親を嫌いな人がいるのだから
親を憎んでしまう自分もありなのかもしれない」と
思える気がする。
だから、私は今でも親が憎いという。
嘘はついていない。
また深く関われば、憎しみは生まれるし、
無関心なだけで、好きな訳じゃないから。

でも、「親が嫌いという価値観を持つ」という言葉以外に
中学生の自分を救える方法があるのなら、
親が嫌いというのはもうやめて
その方法を使うと思う。

ただ、「親が嫌いになってもいい」という価値観は私自身がハタチ前後の頃
聞いてたラジオのパーソナリティがいっててホッとした経験がある言葉なのである。
伊集院光なんだけど、明確に親を嫌いとかは全然言ってないし、
伊集院光が親や家族を嫌いなのかはわからないんだけど、
自分の親や兄弟の悪口や行動をおもしろおかしく言ったり、
自分の自虐ネタを暴露するところが、なんか今までの私の価値観を壊してくれたというか。
「お母さんウゼえ!」とか親の悪口ネタで笑っていいんだって良いんだと思った。
親をキモイとかうざいって思うのは私だけじゃないんだって思った。
(伊集院の悪口ネタはタダ悪いことを言うんじゃなくて、「そんな卑屈なことを考えてしまう自分」
にたいする情けなさやおかしさに裏打ちされている面白さだと私は思うんだけど。)


だから、私もそんな人間になりたいと思った。
お笑いは無理だけど、
私も「そんな卑屈なことを考えてしまう自分」に裏打ちされた「親嫌い」をしたいと思った。


しかし、中学生の頃の自分に今の私が「親嫌い」を持っていても
まだ納得しないと思う。
なかなか手強い子だから、
ただ私が「親嫌い」というだけでは足りないのだ。
「そりゃあさ、あんたニートだからさあ。甘えてんでしょ?だからでしょ?」
って言い返してくるに違いない。
つまり、今の自分が「親嫌い」といったところでは
中学生の私にはただの甘えとしか解釈されないのだ。泣
だから、私は「親嫌い」という価値観を常にもちつつ、
できるかぎりでいいから、中学生の自分が納得できるような大人になれたらなって思う。
(もし、私が将来頑張っても、
自立する夢がかなわず、仮に今と同じくニートのままでも
ニートでかつ中学生の自分が納得できる人間になれたらと思う。)


つづく