私が自殺しようとしたきっかけ

正式な記事がどこにあったか見つけられなかったので、匿名にするがIさんの話。


Iさんはホームレスの支援をやっている。ホームレスは家がなくて、
お金もないから医療費も払えないし、食費も毎日たべれるのか謎だし
夜中襲われたら命も危ないし、多分私の想像以上に大変だと思う。
んで、Iさんはそんな大変なホームレスの方々をいろいろ助けていたのだけれど、
あるとき男性のホームレス数人が、
女性(多分この方もホームレス)を集団でリンチして輪姦するという事件が起きた。
それをきいたIさんはショックをうけてしまったとのこと。

そんな記事があって、その話を知り合いから聞いて、
すごく印象に残っていたので、記した。
私はずっとどこかで、被害者は美しいという幻想があった。
被害者は弱くて、優しい人間で、感性豊か、実は頭がいい。
それ故に、
いろいろずる賢い強者に暴力を振るわれている
何の落ち度もない絶対的な存在。守られるべき存在。正しい存在。
そんな幻想があって、いつか私も被害者になりたいと常々思っていた。
クラスで病弱だったりするひとが特別扱いをされているのをみると
私もしてもらいたいと思った。
何度か私もしてみたが、なぜだか私の場合は誰も同情してくれなかった。
(本当は『不幸』じゃないのかもしれないし、
分かりやすい不幸ではなかったのかもしれない)

リストカットをしても、
親は同情してくれずものすごいあきれた顔をされただけだった。
大学3年のとき、人間関係の問題もあって、
大学通学が困難になってしまって、
でも、それを親がみとめてくれるはずもなく、
自分が生き延びる選択肢がなくなったとき
私は死にたくなった。
死ぬのは怖い。通学は無理だから、
親には迷惑をかけるので生きている価値がないし、
(実際親は姉が、大学を休学した時姉をキチガイ扱いをしたし)死ぬ以外選択肢がなかった。
でも、やっぱり死にたくなくて、
じゃあどうしたら、生きられるかなって考えたときに精神科が浮かんだ。
私が病気なのかはわからない。
でも、他に思いつかなかった。
精神科も自分一人で探した。
死にたくて死にたくて元気がないけど、
うちの親が精神科なんて許してくれるはずがない。
「大学に行けないから死にたいなんてそんなのは甘えだ」と
いわれて傷つけられると、死にそうだったから、
ネットの情報をたよりに評判の良さそうな病院を見つけた。
片道1時間半かかったけど、
適当な病院でひどいこと言われてメタメタにされるよりマシだと思った。
とにかくなんとしても生き延びなければ、
なけなしの自分のお金を使って、病院に言った。
小さな病院でドアを開けると、
受付と目の前に診察をまっている患者さんたちが、
沢山座っていた。
受付の看護婦さんはちょっと怖そうなおばさんだった。
緊張したが「あの、診察お願いしたいんですけど」と勇気を振り絞ると、
「どんな症状ですか?」といきなり聞かれた。
私はその時精神科が初めてで、
てっきり症状とかの説明は他の科の病院みたいに
紙に書くものだと思っていたので激しく動揺した。
後ろに他の患者さんが沢山居るのに、
「死にたいという考えが頭から離れないから来ました」なんて恥ずかしくて言えない。
どうしよう。
とにかくその激しく動揺した感じは看護婦さんにも伝わって、
とにかく何か言わなきゃっておもって
「ふ、、、不眠です!」って適当な事を言って
だいぶ怪しい感じになってしまった。
そしたら、看護婦さんは「不眠だから、精神の病気とは限らないでしょ」と笑い、断った。
(今思えば、家から遠いので断られて良かった)
それで、私は生きる道たたれた気がして絶望して頭が呆然とした。
でも、否定されてはここに居る訳にもいかず、病院を出ようとした。
そのときだった。
私が病院を出て、病院のドアを閉めた瞬間に「がははははは」と
一斉に笑い声が聞こえたのだ。
私が看護婦と会話していたとき、
私の後ろで会話を聞いていた患者達の声だった。
私のやりとりがどうやら面白かったらしい。
多分、大した病気でもないのに精神科に来て馬鹿なやつだと思ったのだろう。
ただ、とにかく私はその笑い声を聞いた瞬間にいきなり身体が重くなり、
目から涙が止まらなくなった。
片道1時間半かかるのにその最中ふいてもふいても涙が止まらなくなった。
とにかく辛かった。
なにが辛いって、すごく傷ついたのにそれは全部自分の甘えのせいで
誰のせいにもできなかったのが辛かった。
大学に行けないのは自分のせい、
わざわざ遠くの病院に来てしまったのも自分のせい、
症状の説明のときに訳の分からないことを口走ってしまったのも自分のせい、
そしてそんな私を笑った患者達は、今心の病で大変な思いをしている方々なので責めてはいけない。
彼らは被害者なのだから。
そんな考えが頭の中をぐるんぐるんまわって、
私が正当に泣く理由が見つからなくて、
泣くべきじゃないのに目から涙がぽとぽと出てきて意味が分からなかった。
被害者は美しいもの。
被害者は弱くて、優しい人間で、感性豊か、実は頭がいい。
そんな彼らにまで、私は最後の救いの存在を否定されてしまった。
もう本当に私には生きる価値がないと思った。
家に到着するまで、足が重くて、涙が止まらなくて、
あんなに家までの道のりが遠いと思ったことはなかった。
家につくとちょうど玄関に父が居た。
ずっと、涙が止まらなかった目は多分はれているはずだ。
なのに、その不自然な様子にいつも気がつかない父親なんか死ねと思ってしまった。
そして、自分の感情を押しつぶして、
泣いていた目と歪んでいた口をむりやりつり上げて笑って
「ただいま」と演じる自分が死ぬほど気持ちが悪かった。

そして自殺を決行した。
洋服ダンスに本で覚えた丈夫なもやい結びでロープをかけた。
死んで楽になってしまいたかった。
なのに、死にたいのに、首にロープをかけた瞬間、足がびっくりするほどけいれんした。
自分で動かしている訳じゃないのに、
吃驚するほど身体が震えている…。
怖いのだ。
死ぬのが怖い。一瞬で死ねるなら良い。
でも、もし、下手に生き残って下半身不随とか脳障害になったら怖いし、
死ぬ前の一瞬の苦痛がとにかく怖かった。
死ねない。私にはどうしても死ねなかった。
生きている価値がないのに。
ロープの下でうずくまって私は考えた。
死ねない、、死ねないのに生きる道が見つからない。
どうしても生きていると親に迷惑をかけしまう。
でも死ねない。
その瞬間一つの考えが浮かんだ。

自殺するよりは親に迷惑をかけてでも生き延びた方がましなのではと。
人に迷惑をかけるから死ぬってなんか変だ。なんで死ななきゃいけないの、、?
その瞬間生き方をかえることにした。


いままでは私は駄目人間だから、せめて迷惑をかけないようにとおもって、
自分が何のために生きるかの優先順位の1位に人に迷惑をかけないことにしていた。
でも、人に迷惑をかけないで生きることって本当にできるのかな。
人はだれでもなにかしら迷惑をかけている気がする。
それにその為に死ぬなんてなんかおかしい。
でも、やっぱり迷惑は迷惑で、良いことではないのでできるだけかけないようにはしたくて
だから、
自分が生きるための優先順位の1位を自分の幸せのためにして
2位を人に迷惑をかけないことにした。

そしたら、いままで背負ってきた肩の荷がすこし減って、気分が軽くなった。
ああ、わたし自分のために生きて良いんだって思った。
そしたら、身体から力がわいてきて、物事も少しだけだけど、
自分の頭で考えられるようになった。
そうなった今、冷静にあの精神科の出来事を振り返ると、
私は少しぐらいは私を笑った患者達にむかついても良いんじゃないかと思う。
心の病、、きっといろんなことを抱えて大変だと思う。
もしかしていじめられたのかもしれないし、
親に虐待されて、そうなったのかもしれない。
とにかくなにかしら辛い思いをしているのだ。

そして、私を笑った理由は多分こうじゃないかと思う。
被害者というポジションはものすごく曖昧でいつ崩れるかわからない。
心の病ならなおさらだ。分類が曖昧すぎる。
何が病気で何か正常かの境界線なのかよくわからない。
でもとにかく、精神科に通わないことには患者という被害者のラベルはもらえない。
だから、患者にしてもらえるように、
もし自分が元気なときでも、医者の前で病気を装わないといけないし、
自分自身もたまに自分が本当に病気なのか不安になる。
だから、自分が病気だと正当化したくて、
心の病気なのか曖昧なひとがいるとその人を笑うことで
自分が病気であると思いたいんじゃないかと思う。
(と、これは仮説なので、今後かわっていくかもです)
自分が被害者になって援助を受けるために必要以上に病気っぽさを
装ったりすることは悪いことじゃないと思う。

むしろ正しいとさえ思う。
何をするにも、とにかく助けてほしいときは
過剰ってくらいこれは被害妄想ってくらいかわいそうな人のフリをしないとだれも助けてくれないから。

私もそうだ。
私は自分の幸せのために生きているから、
どんなに些細なことでも傷ついたり気になったことは主張する(場所は選ぶ)。
そうしないと、何をしても傷つかない平気な人ということにされて、
我慢しないといけないことが増えてつらくなるから。
だから、それは多分正しいことで、
でもこれは自分への戒めとして、(私も被害者的な面もあると思うので)
いろんな暴力や病気に苦しんでいる人対して思うことがある。

まず、第一に被害者は救われるべき存在である。
でも被害者はその弱さゆえに時に加害者になる
と思った。

私もいろいろ被害体験を言ってる分、何かしら加害者だと思う。

そして、私は、覚えている加害体験に関してはいつか向き合おうと思う。
自分がどんなことをして何が悪かったのかちゃんと人に説明できるようにしたい。
せめて自分だけは加害体験にも目を向けられるようになりたい。
こんな考え方窮屈かもしれない。
過去は過去、今は今で生きれば良いのかもしれない。
でも、たとえば、イジメの話。
私は昔いじめられていた。
私の前にいじめられていた女の子Yがあまりのイジメのひどさに
転校していってしまったので、いじめられ候補第2位の私が的になった。
それでしばらく私がいじめらていたんだけど、
運良くあたらしく転校生が現れて、
的がその転校生のSにかわった。
その時、私は自分がいじめられていたのにもかかわらず、
Sをいじめた。というかみんなと一緒に悪口を言った。
今思えば、またいじめられるのが怖かったのかもしれない。
だからやってしまったのかもしれない。でも、それでも、
その時私は心の底からSをきらった。差別した。自分もいじめられっこだったのに。
しかも、私は私の前にいじめられていた女の子Yも差別していた。
いじめられてる時助けるフリとかしていたけれど、
本心ではYを気持ち悪いと思った。
今思うにそれは、
女の子Yと自分の顔が似ているとみんなに言われて、
んで、じゃあ次にいじめられるのは自分だって無意識にわかってて、
それを認めたくなくて、Yを軽蔑することで、自分は似ていないから、
いじめられはしないと思いたかったんだと思う。
それでも罪は罪だ。
だって、
いじめられた本人はそれだけで人生にかなりの悪影響やトラウマを植え込まされてしまったのに、
「私もつらかったんだから、いじめたのはしょうがなかった」
で気がすむと思う?
学校生活を台無しにされたのに。
他でもいえることだ。
娘に暴力をふるう母親がいるとする。
娘はそれに耐えたけれど、いろいろ心的障害がのこったとき、あの時本当はつらかったと母に告白する。
そのとき、母は言う「でも、私も辛い思いをしてたのよ(だから責めないでという意味合い)」
と娘を否定する。
おそらく加害者である母もまた別の人に暴力をふるわれたなどの被害体験があるから
加害してしまうのだ。被害者は加害者なのと同時に、加害者も被害者なのだ。

それで良いの?
だからせめて、覚えている加害体験はちゃんと、いつか整理して、
誰のせいにもせず自分が加害したことを認識しようと思う。
心に止めておくことがけして償いになるとはおもわないけれど、
加害体験はおぼえていることが自体がまれである。
自分に都合の悪いことなのだ。忘れた方が良い。心が安定する。
いっそのことなかったことにした方がラク
なので、わすれて加害体験をなしにできてしまうのである。
だから、せめて、人に「私はあなたに○○されて傷ついた」と
相手に告白されたときはちゃんと向き合おうと思う。
辛い作業だからすぐには無理で時間はかかるけど。
自分だけは誠実な被害者であり加害者でありたい。
こんな考え方はやっぱり歪んでいるかもしれない。
なんかこんなにきつきつの考え方をしているといつか、
加害に向き合えない弱い自分に出会って落ちていくかもしれない。
それでも、考え方を変えられないのは、私を笑った奴らが憎くて憎くてたまらないからかもしれない。
つまり、私は私が自分の加害体験を許さない代わりに、お前らも許さないからな。
ということなのだ。
こんなゆがんだ考え方かえられれば楽なのに。
自分と向き合ってばかりでも、窮屈で辛いだけなのかもしれない。

でも、それでも、私は
ただ、自分の辛い体験だけをいうひとより
同時に自分の罪も少しでも向き合っている人の方が人間として好きだ。
信頼できるし、魅力を感じるし
私自身も人を嫌ったり意見する時は
自分の罪も同時に意識できるような人間になりたい。
って一番出来てないのはわたしなんだけど。