友達の定義

そういえば、昔白井さんのキングオブニートに出た時友達の定義について話した。
そういえばどこまでが友達でどこまでが知り合いなんだろ。
具体的に考えたことがなかった。
その放送では
「友達とは自分を犠牲にしてでも相手を助けられる存在だ」
という意見があってなんか拒絶反応がでてだいぶ感情的になってしまったと反省している。
冷静になった今改めて友達の定義について考えたみた。
まず、なんで「友達は自分を犠牲にしてでも相手を助ける」という定義に反応してしまったかというと、
実はわたしも本質的には同じ事を友達に求めてしまう傾向があるんです。
だから、その意見はある側面では当たってるなと思った。
でも、私の場合ちょっと違って、
「私はあなたの友達まから私の人生を犠牲にしてでもあなたを助けます」
プラス
「だから、あなたも私の友達だから、あなたの人生を犠牲にしてでも私を助けなさい」
という少しタチが悪いものものなんだよね。
んで、それって
なんか、閉鎖的と言うかお互いをただ束縛し合う関係でしかなくて。
お互いを「助け合う」ことより「助けられなかった」ときのことをガミガミ言う関係と言うか、、
すぐあんたは私を助けなかった。裏切り者!友達じゃない!という関係と言うか…。
なんかうまく言語化できないけど。
とにかくお互いの足を引っ張り合う関係で最終的には破滅する関係なんだよね。
しかも、その関係ってうちの母親とあたしの関係と言うか
うちのお母さんが無意識に出してる「私はあなたを私の人生を犠牲にして育てたんだから、
あなたも私の期待に応えなさい。私の世話をしなさい」オーラそっくりなんだ。
つまり、私は母親と同じ事を友達に押しつけてしまっている事になる。
んで、それはいやで母親と同じ過ちは繰り返したくなかったから過剰反応してしまったんだと思う。
だから、わたしは大事な友達が助けて欲しいというときは助けたいと思うし、
今私が自由に漫画を書けたりするのは
いろんな人々の助けがあったからなので交友関係は助け合いでもあるのかなと思った。
ただ、私の場合は過剰な助け合いの関係は見返りを求めてしまうので、
「自分の能力でできること」という基準のなかで助ける事が前提だと思う。
見返りも求めず自分を犠牲にしてでも相手を助けられるひとは美しいかもしれないけど
今の私はそこまで強くなれない。
だから、助け合いはやっぱりすごく大切なんだけれど、
私の場合はそれを「友達の定義」にしてしまうと相手をいろいろと束縛してしまうので、
私のなかでの友達の定義は
「もし、友達が幸せになることが私の利益と一致しなくても認められる関係」
かなと思う。
要するにお互いの価値観が違って友達のしたい事が私にとって辛い事でも
最終的には受け入れられる存在。
最初は素直に認められずいろいろ反発したり、悲しくなったりはすると思うけど、
時間かけて認められる存在。

というのは綺麗ごとすぎるよね…。
まあ、これは理想です。いつかそういう関係が築けるといいな。
相手の事をちゃんと理解できれば考え方が違っても尊敬し合える関係になれないかな…。

↓はアシスタントになる為の練習。
またスピード線

↓マンガの模写。アシスタントした時にツヤベタをやったのですが上手くできなかったので、
練習。(ツヤベタは黒い髪につやを入れる作業のこと)

↓ツヤベタをたくさんやってみた、、、。
いつもは筆ペンだけでやってるんだけど
筆ペンにさらにインクをつけると
やりやすい事が分かった。

、、にしても、なんか全体的に仕事の効率が悪い気がする。
次から、時間はかってもっとたくさん書けるようになろう。
はあ、、汗