ギャル

今日は放送日だ。
ゲストの中山美里さんの著書
「16歳だった〜私の援助交際記」をよんだ。
ほとんど実話だそうだ。
援助交際のことは私が高校生の時もニュースで盛んに取り上げていたので
知っていた。
ただ漠然と「人に身体を売れるほど、自分の身体に自信があるなんてうらやましい」
なんて軽蔑した目で私はテレビの中のギャル達を見ていた。
当時私はギャルが大嫌いだった。(私は地味っ子ポジション)
あのいつも偉そうな態度とか、
流行ってるかダサイかでしかしかないところとか、
周りの人間を「うざい」「きもい」とかいって差別するところとか、
クラスの価値観がギャル中心で動いてるところとかも
もう嫌で嫌であんな自分勝手な奴らは死んでしまえばいいのにと思っていた。
本当はブスのくせに可愛いぶってんじゃねーよと思っていた。
私だって似たような人間なのにだ。

中山さんの本書を読んで妙に印象にのこった部分がある。
 
→「16歳だった」106ページより抜粋

 
 「学校の友達が電車の中で痴漢にあい、制服のスカートを精子で汚され泣いていた事が会った。見知らぬ男の白い液体がついたスカートは学校につくなりゴミ箱に捨ててしまい。上にはセーラー服、下はジャージという格好でその日1日を過ごしていた。彼女はそのままの格好で電車に乗り、帰宅した。その日、彼女の妙な格好を見るたびに、あたしの心はいらいらとささくれ立った。
 痴漢をいつまでもそのままのさばらせておくほうが悪いんだ。タダで触らせておく方が悪いんだ。痴漢なんてされたら相手が特定できるんだから相手からお金を奪えばいい。本当はスカートの汚れを許せなかった自分をアピールするためのショーのくせに。
 違う。そうじゃなかった。あたしはうらやましかったんだ。いやなこと、気持ち悪いことを、「いやだ、気持ち悪い」とみんなの前で泣ける彼女が妬ましかったんだ。
 あたしは泣けない。援交をはじめてから、普段でも泣けなくなっていた。映画を見ても、小説や漫画を読んでも、感情を出し入れできない。
 あたしは悪い子なんだからこんなことでは泣かない。軽い女でビッチで悪女でヤリマンだから、ちょっとやそっとの性的ないやがらせくらいじゃなんとも思わないんだ。こんな風に心の外壁を固めていたのに、ふいにそれを崩そうとするものがでてくる。
 そんなときは感情を押し込めるのに限る。そんなトレーニングをしているうちに、いつのまにか本当に泣けなくなった。突っ張って硬くなった外見の中にはいつだって沸騰しそうな感情を抱えていたのだけれど。

だからみんなの前で泣いている彼女に嫉妬している自分の心に気づきたくなくて、あたしはその日彼女の姿をみないふりをした。ゴミ箱にすてられたスカートが1日中視界に入らないように努力した。」




今の母や私に似ている。
母は鬱病で精神科に通っているのだが自分を心の病気だと認めない。
『私は「つらい」と人に弱音を吐く心の弱い自分勝手な人々とは違う。』
と同じ病院にいっている患者や精神科歴のある姉や私を否定する。
私は母はなんてかわいそうな人間なんだろうと思う。
だって、相手を否定する事は自分を否定する事にだから。
つまり、母は自分が「心の弱い自分勝手な人間」だと認めるのが怖いのだ。
もし、認めてしまったら、母は崩壊するだろう。
辛いなら精神科に通う人間=心の弱い自分勝手な人間という偏見を捨てればいいのに。
人は苦しい時必ずしも「辛いから助けて」と言える訳じゃない。
強がっていたりして、いっけん辛そうに見えない人もいる。
そう思うと、あの頃クラスで偉そうにしていたギャルたちも
その態度には理由があるのかもしれない。
やっぱり自分のもってる偏見とかで憎いけど。

中山さんの著書「16歳だった」は私の知らないギャルの世界を見れて面白かった。今日の放送で中山さんの話をきいて私のギャルの偏見を崩していけたらいいなと思う。