それでもやっぱりマンガ。

えっと、漫画のことですが、説明すると死ぬほど長くなるので、
今のところは詳しく説明しません。(笑)
抽象的にいえば、
ものすごい真っ暗な密林のジャングルで、
ツタや木の枝やらが、私の体に絡み付き、
身動きが取れない上に、がむしゃらに動き回るので、
さらにツタが絡み付いて「もう訳わかんねーよ!」
「ていうか、ここどこ!?」という感じでしょうか。
真っ暗で視界ゼロだし、動けないし、現在地も謎だしみたいな。
しかも、絶望的なのが、私の態度でございます。
実はこのジャングルから出る方法を知っている方々から、
「抜け出し方を教えてあげるからこっち来なよ」と救いの手を差し伸べてくれてる方々に対し、
「そんなの知りたくない。まだ、一人でもがいていたい。」という頑固者だから。
でも、いやなものはいや。
無能な上に完璧主義で、
だからといって時間を沢山書けたからといって、
比例して、良い作品が書ける訳でもなく、
(というかむしろ駄作でもいいから、何本も書き上げた方が、絶対上手く行くと思う)
でも、まあ一ヶ月半で500枚のコピー用紙パック2冊分がなくなる程度には、
絵コンテ描いてはいて、(多いのか少ないのかは不明)
ネームも絵コンテも完成してねーのに、
一人前に腱鞘炎にはなって手が、、指が、、肩が、、
めちゃくちゃ痛い単なるアホな人間でございます。
書いても、書いても感じるネームのこの「作り物」感!!「偽物」感!!
答えは分ってる。
このストーリー自分に向いていない。
ライブハウスとかよっくわかんねーよ。
普段そんなとこで遊ばないし。
今まで漫画を自然に書けたのは自分の実体験にかなり近くしていたから。
自分が体験していた事なら、
リアルに書けるから。
それ自体は正解だと思うんだけど、
逆に言うと、保守的というか、視野が狭いとか
守りに入ってる感じがして嫌だった。
(いや、それでも、最終的に行き着くのはそこだと思うんだけど。)
今はもっと色んな事に挑戦したい気分。
今までフィクションなんて書いた事なかった自分に気がついたよ。
どうやって、うそ物語を読者に面白く読ませるか。
そんなこと考えたことなかったよ。
台詞回し、コマワリ、演出、キャラクター造形。
頭の中にあるものそのまま出せば、何とかなると思っていたよ。
編集者が言ってたよ。
「あんた人を楽しませようとして絵を書いたことあんの?」
あの時は「ないかも」って思ったけど、
違う。人に好かれたくて絵を描いてた時もある。
人のためばっか考えて、自分の書きたいものかけなくてつまんなかったし、
最終的にそういう絵はウけない。
逆に自分の書きたいものばかりかくと、ただのオナニーになるよ。
自分が書きたいもの且つ相手にとっても楽しいものって何?
そのとき、思ったよ、私。
自分の書きたいものはある程度わかるけど、
相手にとって何か楽しいかさっぱりわからん。
だから、読んだ漫画や見た映画、演劇を分析することにしたよ。
自分が読者として、どこに惹かれ、どこが面白いのか。
読者は何に惹かれて作品を読むのか?
そんなことを考えたりする。
でも、そんなことが今のところ、自分の漫画製作に直接役立っているのかというと
別にだ。やらないよりはましだから続けてるんだよ。
とにかく私の書く絵コンテはつまらない。
絵の安っぽさもストーリー展開も。
だから、好きな漫画の好きなコマワリを切り取って、壁にコラージュすることにしたよ。
恐ろしいことに気づいてしまった。
技法書は親切はいろんなノウハウが書かれている。
でも、あんまり従いすぎるとありがちな作品ができる。
自分の作風が消える。
どっかの編集者さんがいってたっけ。
どんなに自分をけしても、漫画に自分らしさは残るよと。
でも、なんかいやだ。
よくわかんないけど、ただのわがままで強情なだけだと思うけど、
自分の中で面白いと思っていた部分が消えて、
パターン化したカタだけ残って、
ありがちでぺらぺらの作品になるのがいやだよ。
でもだからといって、自分の中で面白いものが他者にとっても
面白いかっていうと、やっぱりぺらぺらで薄い
思考停止した内容しか書けやしない自分の実力のなさだよ。
無意味だとは思わんけど大変むなしい。
絵コンテを描いてると、やっぱもっとライブハウスのこと知るべきと、
思えてきた。


あと、自分の音楽やライブハウスに対する偏見も。
だから、今までJポップでさえまともに聞いたことなかったけど、
ちょっとずつ音楽を聴くようになった。
そしたら、今まで見えなかった音楽のすばらしさ、精神が少し見えたよ。
ていうか感動したよ。こんな世界があるのかと。
ライブハウス。ステージの大きさとか何があるかとかが把握したくて
また一人で行ってみたよ。(直接漫画に使うかは別だよ)
怖かった。恥ずかしくて音楽にのれない自分。
会場の後ろで前列の男性客人の肩越しにしかライブを見れない自分。
男性らは身長が高いので、視界が狭められ、
ライブ中ミュージシャンの顔しか見えない。
それが今の私とライブハウスの精神的な距離感だと思った。
会場には周りにおしゃれで自分だけ野暮ったい格好。
おしゃれもコンプレックスがある。
今はおしゃれしたくない。
大学生のとき恋をしたよ。
そのときもっときれいになりたいと思った。
必死で雑誌を研究してJJなんかよんでみて、
デパートの化粧売り場で化粧を教えてもらって、
雑誌で研究して、がんばったよ。
今までだれも友達いなかったけど、
男友だちが一気に増えたよ。
でも、鏡に映る自分にいつもむなしさを感じたよ。
「この無駄に着飾ってる薄っぺらい人間はだれ?」と
自分の自己イメージと自分のファッションが一致しなかったから。
1日何時間もかけて、洗顔、スキンケア、メイク、ヘアーセット、
服のコーディネイト。シーズンごとにちゃんと雑誌をチェックして、
トレンドを把握、自分に似合うものをチョイス。
しんどかったよ。
私がしたいのはこんなことじゃないのに、
ファッションが流行が、私の1日の時間を奪っていくんだよ。
しかも、それで出来上がる自分は、うその自分で、
鏡を見るごとに「こいつ誰?」と違和感と拒絶反応。
男友達が増えたからとて、恋が実るかというとそれも別問題で。
これはいったい何のためのファッションなの?
それであるとき、
着飾ることをやめたよ。化粧することをやめたよ。
髪型も服も適当だよ。
でも、ほっとしたよ。
野暮ったくて、ダサくて、さえない自分。
あ、これが私なんだ。
自分の中の自己イメージと一致して、
鏡を見ても服装の拒絶反応が出なくなったよ。
履きやすい靴しかはかなくなったよ。
メイクや服に裂かれてた時間が空いたよ。
そしたら、なんて世界は自由なのかと思ったよ。
人にあいつ地味だよなという視線で見られても、
「そうだよ、だってこれが自分だもん。
おたくっぽくて、野暮ったくて、さえないのが自分だもん」とおもえた。
私の今の服装はアニメメイトにいくのに最適な服装だよ。
てゆーか、最近は漫画を書くこと以外のことに一切気を使えず、
髪はぐちゃぐちゃで、料理もろくにしねーから食生活がめちゃくちゃで、
過食気味で7キロ増で
腹はたるみ、あごはたるみ、ブラのサイズは変わり、
しかも歳食ってってるから、老いてるし、
毎朝電子レンジのガラスにうつった自分の顔を見て、
日々橋田須賀子化している自分に絶望しますよ。(いま、一瞬「橋田須賀子が不細工って意味じゃないよ」
と彼女を擁護しようかと思ったけど、それもなんか違うな。
脚本の実力とか関係なく、ヴィジュアル的にはただのフツーの
おばはんだよね、、、)
んで、だからおしゃれすることに拒絶反応があったわけです。
でも、やっぱおしゃれしないとライブハウスみたいなところは正直行きづらいっす。
周りの視線を気になるし、自分も思う存分楽しめないよね。
だから、少しおしゃれしてみようと思った。
でも今度は無理しないおしゃれね。
流行とかトレンドというよりは自分の自己イメージとのギャップが少なくて、
なおかつライフスタイル、自分がかわいいと思えるものを着るという方向。
んで、服に使えるお金なんてそんなないから、
とりあえず第一ステップとして、
どこか服装の中で1アイテムだけはこだわることにしたよ。
んで、自分の服装の中でどっかこだわっているとこはどこか?
って考えたら、靴だった。
はきやすく且つかわいい靴。
これが私のこだわり。
おしゃれをがんばっていたころ、なるべくおしゃれに見えるように
履きにくい靴ばかりはいていたよ。(今思うとあのときの服装は
おしゃれしたいというより、周りのおしゃれの学生の中にいても
違和感がない服装をしたいという願望が先でかわいくなりたいとか、
好きなもの着たいとかこだわりがなかったのかもね。)
んで、はきにくいヒールのついた革靴ばかり履いていたから、
よくこけるし、靴擦れはひどいし、毎日外へ出るのは億劫だったよ。
そんないやな経験があるから、とにかく靴にこだわることにしたよ。
1点だけ好きなものをつけるのだから、
ちょっとやそっと好きな靴じゃなくて、恋をしてしまうような靴を探したよ。
そしたら、ついにお気に入りのブランドを見つけました。
しかし、値札を見たら、今の私には手の届かないお高い靴でございました。
だから、貯金がたまったら買うことにします。
それまでは今までどおりアニメメイト仕様の服装で行動でございますよ(笑)
だから、漫画のためとはいえ、ライブとか見に行くときは、
野暮ったい服でございます。
周りの視線がいたい、痛い。
つーかみんなおしゃれだし、来てる客で、女は
彼氏連れしかいねーじゃん。
でも、ここで逃げたら負けなので、
場違いでも、痛い存在でも
必死でライブ会場にいて、
空間の広さ、ライトの感じ、お客さんの雰囲気を観察しました。
でも、人と目をあわすのが怖い人間なんで、大して観察できませんでした。
そして、漫画の役にも立ってないよ。
でも、なんだろ、この感じ。
生きてるって感じ。
ライブハウスにいって、周りには自分と違う人種ばかりで、
ただただ場違い感
地味で音楽にものれず、不細工な上にダサいと。
はたから見たら、「お前はなぜこんなとこにいるんだ?」
という存在。
そんな痛い存在。恥ずかしい、苦しい、
一人でいることで何とか保ってきた小さな自尊心が
簡単に壊される空間。
今まで経験したことなかったよ。
こんな感覚。
ライブハウスってさ、すごく特別な空間なんだよ。
作り手と消費者がお互い見えるのよ。
ずっと、秋葉原的な、作り手と消費者が別れたものばかり
消費していたから気がつかなかったよ(それをエンターテイメントという)
アニメも漫画もそうだけど、
作品や作者の顔は結構みれるけど、
読んでる側、読者のほうは自分の姿をさらさないですむわけですよ。
(チャットとか、2ちゃんもそうね)
だから、いいたい放題いえるわけ。
まあ、それが有り無しかはまた、別問題として、
自分がどんな人間かが作り手にも見える立場で、
何か物申すのと、影で何か言うのはぜんぜん違うでしょ?
心構えが。
相手の目の前で言うっていうことなにかしら感情表現するってことは、
自分も否定され傷つく可能性が生じるんだよ。
だから、生半可なことはいえない。
覚悟がいる。
でも、その代わり他者と本気で向き合っってる気がしない?
だからすごいよ、ライブハウス。
客は歌を聴きにきてるけど、バンドマンも
客をみてるわけですよ。
いままで、秋葉的なもばかりを消費して、
甘やかされて育った私にはカルチャーショックですよ。うん。
知らなかったよ、こんな世界。
ライブハウスの帰り道、
自分の存在の痛々しさが恥ずかしくて、
でもこれが今の自分なんだなっていう安心感もあって、
ライブハウスという今まで経験したことがなかった空間に触れた興奮もあって、
走らずにはいられなかったよ。
息が切れて、足の筋肉が痙攣して、体が熱くなって、涙が出てきて、
精神的にも身体的にも傷ついた痛みや高揚、希望そして自分の未熟さを
実感できて、その瞬間だけは
今自分が現実世界に生きてるってことが実感できるよ。
現実に生きてる弱弱しくて馬鹿な自分を認めてあげることできる。

私ね、昔からなぜか現実に生きてる感じがしないんだ。
今そこにいる自分をリアルに実感できないの。
それを離人感というのか、乖離というのか、
ただボーっとしてるだけというのかわからないけど。

とにかく、小さい頃から抜けない離人感。
どこにいても、自分がそこにいる気がしなかった。
幼稚園のころ、朝教室に入ると、
いつも意地悪グループの子が私の悪口を言っていた。
でも、なぜか遠い別の人に言っているように聞こえて実感がわかなかった。
実家で、祖父が私のひどい成績の通信簿をみて、
「こいつは馬鹿だ」といったけど、なぜか自分の事には聞こえない気がした。
毎日習い事のピアノの練習を母に強制するのが嫌だった。そう思っていたら、
いつの間にか記憶が飛ぶようになっていた。
「ピアノの練習しなさい!」と母が怒る。
嫌だなあとこころの中で思う小さい頃の自分。
そうすると、いつの間にか頭の中が真っ暗になって、
いつの間にか、ピアノの前座って、楽譜を広げて練習している自分がいる。
あれ、さっきまで、床で寝っ転がってたのに、いつの間にかピアノを弾いている。
その間の記憶はどこにあるの?
いつの間にか風呂場で裸になっていたり、
知らない道歩いていたりもした。
バイト先では、仕事の説明が頭がボオっとしてまともに聞けない。
ちゃんとやらなきゃという気持ちがあるんだけど、
「少しでも嫌だな」と思うとどっかに飛んでしまう。
相手になにか批判されるとすぐ頭がどっかいってしまって、
上手く聞く事が出来ない。
ちゃんと向き合う為に、「ごめん、聞こえなかったからもう一回言って」
といっても、相手は「そうやってあんたはいつも聞こえない振りをする」
といって、あきれ、もう一度は言ってくれた試しがない。
授業でて研修受ければ簡単にとれるような資格の
授業でも居眠りしてしまった。
寝不足じゃなくても、よく寝ておいても、
少しでも退屈だと寝てしまった。
講師にあきれられる。
私の気力の問題。心のもち用。
その指摘ごもっとも。
でも、どんなに頑張ろうとしても眠くなっちゃう。

んで、たぶんそんな自分がいやだったのかな、または
これが離人感の原因かもしれないけど、
とにかく空想のほうに逃げたんだよ。
とにかく、生きていたくない現実のほかに、
頭の中で自分の生きれる世界をつくった。
そして、起きてる1日の大半をそっちの世界で生きた。
それは今でも変わらない。
話を聞いていてもどこか上の空になってしまう。

漫画を描いていると、
漫画と向き合っていると、時おり
現実世界に自分が戻ってくるんだ。(ライブハウスの時もそう)
努力しても、空想に逃げる自分がだめだと思っても直らなかったのに。
生きてるって感じがするんだ。
外の人の声や雑音が今まで聞こえなかったのに、
聞こえるようになる。自分がそこにあるように感じるよ。
風が自分のほおっぺたを通っていくのが感じられるよ。
それは漫画が逃避していた空想と現実をつなぐ媒介の役割をしているからかもしれない。
それとも、やっぱり漫画を描くこと自体が好きだから、
単に向き合えるだけなのかもしれない。

とにかく私にとって漫画は私が現実と向き合うために必要不可欠なもの。
私にとっては生きるということだ。
だから、この先プロになれなかったとしても、
作品ができなかったとしても、私は筆を止めない。
というか、とめられない人間であることに、ここ2年で実感したよ。
ホームレスになっても鉛筆があれば書き続けるよ
それがはたから見たら、ただのお馬鹿さん。
実際単なる馬鹿だよ。
でも、やっぱり私には漫画しかないよ。
そう思い込んでるだけなんだろうけど、
それを理解したところでなんに成る。
それで漫画以外の現実に向き合えたか?
私はむりだよ。そんな器用なことはできない。
今自分のできることを自分の感覚にしたがって実行する。
それしかない。
プロにもなりたいし、あきらめる気もさらさらないし、
完成させる気満々だけど、
でも、漫画が人に認められることを人生のゴールにしてはいけないと思った。
というか、ゴールを設定してはいけないと思った。
自分はどこかで漫画を書いてみとめられれば、
自分が生きてていい人間なんだと思える気がした。
でも、それは違う。
人に認められる認められないとかさ、
生きる価値を他人任せにしちゃあいかんのだよ。
あるのは自分が何がしたいか。
それだけ。認められんでも認められても書きたきゃ書けばいいんだよ。
どんなに一生懸命書いた作品だってさ、
読んだ人がつまらないと思ったら、その人にとってはそれはゴミなんだよ。
未熟でひどい作品でも、
好きな読者がいれば価値があるってこと。
どんなに高尚なものを書いても、それを読む人がいなければ、
価値がないってこと。
でもそれはけして絶望ではないよ。
だってまた、自分の作品が誰にも認められなかったとしてもだよ、
本人自身がその作品を良しとするかどうか
また書き続けるのかどうかという判断は別問題だからだよ。
書きたいなら書き続ければいい。
だから、私の作品をみて、つまらんと思った人は、
ゴミだとでもおもってください。
それでも私自身がそれをゴミと思うか、
また書くのをやめるかは別だから。



仮に認められても、それって錯覚に過ぎないと思うんだ。
作り手が自分勝手に書いたものが、
消費者が自分勝手に解釈してたまたまそれが一致しただけの話。
でも、作り手の意図とは違ったとしても、
受け手にとってそれが少しでも意味があるものならば、
それは奇跡だと思うし、すばらしい事だと思うよ。
だから、仮に錯覚でも、
もし今後私の漫画をよんで面白いって言ってくれる方がいたら、
それはすごく嬉しい事だし、
ブログとかも今までの文章私は好きになれないけれど、
それでも、ブログ読んで面白いと言ってくれた方がいて
とても嬉しかった。
だから、絶望はしていません。