最後

私は人に心を支配されるのが怖い。
しかし、その怖さゆえに私は恐ろしい怪物になってしまったのかもしれない。

もう、自分が犯した罪を告白する事でさえ疑問を感じる。
罪を隠すとか、罪を免れたいのではなく、
あえてする必要もない時に罪をさらけ出すこと自体が
結局オナニーなのではという疑念があるから。

漫画はまだかいているのでそっち関連で書く可能性はある。
しかし、日常の日記はもう書かない。
向き合うべきは自分の中の怪物であるのだから。

計画表を作った。

ずっと家でアイディアだしをしていました。

だいぶ、ネームもアシスタントの勉強も進行が遅く、
上手くすすまないので知り合いに相談したら、
「時間管理がなってないから、計画表を作った方がいい」と
言われました。
知り合いいわく、最近賞を取った同じく漫画家志望の友人と
私の違いはスケジュール管理が出来てるか出来てないかの違いだそうです。
そういえば、その友人はバイトをしているので、
制作時間がすくない、その時間を有効に使う努力をしているそうです。
自分より前へ行ってる漫画家志望さんの事を意識しつつ、
良い所を盗んでいったほうがいいと言われました。
いままで、私は他の漫画家志望の方と自分を比べたしまうと劣等感で
辛くて逆に漫画製作に手に付かないくらい落ち込んでしまうので
避けてたのですが、
そろそろ相手をちゃんと見極めていい所は盗む努力をした方が良いようです。
んで、計画表の方ですが、
8月中にはネームを終わらせるようにして、
9月末には完成させる計画表を作りました。
8月の予定は
12日〜14日までアイディア出し(ちょっと前回のネームの状態では上手くいかない気がするので作業を初期段階から見つめ直しました。)
21日〜22日までアイディア整理
23日〜25日まで絵コンテ
26日 予備日
27日〜29日ネーム作業
30日〜31日山本治氏の本を見ながらネーム修正
以上です。
17日〜20日はちょっと外出しているので、
スケジュールは入れないようにしました。
アシスタントの勉強はいろいろ考えた所、
背景は9月の自分の漫画の作画で練習できるじゃないかと思いました。
だから、8月はスピード線等の効果線テクニック等を中心的にやっていこうと思います。
計画表を作るまで、なかなかモチベーションが上がらず、
もう書こうとしていた漫画「やられまん」は
自分の描きたいものではないのかなと迷いがありましたが、
やっぱりまだ、強く描きたい、あきらめたくないという気持ちがあるので、
完成させます。

あと、ここ1、2週間旅に出ます。
なつやすみなのでちょっと出かけてきます。
スケッチブックと本を持っていくので、途中クロッキーくらいはできたらと考えています。
(学校辞めたので夏休みも平日も関係ないのですが、、汗)

友達の定義

そういえば、昔白井さんのキングオブニートに出た時友達の定義について話した。
そういえばどこまでが友達でどこまでが知り合いなんだろ。
具体的に考えたことがなかった。
その放送では
「友達とは自分を犠牲にしてでも相手を助けられる存在だ」
という意見があってなんか拒絶反応がでてだいぶ感情的になってしまったと反省している。
冷静になった今改めて友達の定義について考えたみた。
まず、なんで「友達は自分を犠牲にしてでも相手を助ける」という定義に反応してしまったかというと、
実はわたしも本質的には同じ事を友達に求めてしまう傾向があるんです。
だから、その意見はある側面では当たってるなと思った。
でも、私の場合ちょっと違って、
「私はあなたの友達まから私の人生を犠牲にしてでもあなたを助けます」
プラス
「だから、あなたも私の友達だから、あなたの人生を犠牲にしてでも私を助けなさい」
という少しタチが悪いものものなんだよね。
んで、それって
なんか、閉鎖的と言うかお互いをただ束縛し合う関係でしかなくて。
お互いを「助け合う」ことより「助けられなかった」ときのことをガミガミ言う関係と言うか、、
すぐあんたは私を助けなかった。裏切り者!友達じゃない!という関係と言うか…。
なんかうまく言語化できないけど。
とにかくお互いの足を引っ張り合う関係で最終的には破滅する関係なんだよね。
しかも、その関係ってうちの母親とあたしの関係と言うか
うちのお母さんが無意識に出してる「私はあなたを私の人生を犠牲にして育てたんだから、
あなたも私の期待に応えなさい。私の世話をしなさい」オーラそっくりなんだ。
つまり、私は母親と同じ事を友達に押しつけてしまっている事になる。
んで、それはいやで母親と同じ過ちは繰り返したくなかったから過剰反応してしまったんだと思う。
だから、わたしは大事な友達が助けて欲しいというときは助けたいと思うし、
今私が自由に漫画を書けたりするのは
いろんな人々の助けがあったからなので交友関係は助け合いでもあるのかなと思った。
ただ、私の場合は過剰な助け合いの関係は見返りを求めてしまうので、
「自分の能力でできること」という基準のなかで助ける事が前提だと思う。
見返りも求めず自分を犠牲にしてでも相手を助けられるひとは美しいかもしれないけど
今の私はそこまで強くなれない。
だから、助け合いはやっぱりすごく大切なんだけれど、
私の場合はそれを「友達の定義」にしてしまうと相手をいろいろと束縛してしまうので、
私のなかでの友達の定義は
「もし、友達が幸せになることが私の利益と一致しなくても認められる関係」
かなと思う。
要するにお互いの価値観が違って友達のしたい事が私にとって辛い事でも
最終的には受け入れられる存在。
最初は素直に認められずいろいろ反発したり、悲しくなったりはすると思うけど、
時間かけて認められる存在。

というのは綺麗ごとすぎるよね…。
まあ、これは理想です。いつかそういう関係が築けるといいな。
相手の事をちゃんと理解できれば考え方が違っても尊敬し合える関係になれないかな…。

↓はアシスタントになる為の練習。
またスピード線

↓マンガの模写。アシスタントした時にツヤベタをやったのですが上手くできなかったので、
練習。(ツヤベタは黒い髪につやを入れる作業のこと)

↓ツヤベタをたくさんやってみた、、、。
いつもは筆ペンだけでやってるんだけど
筆ペンにさらにインクをつけると
やりやすい事が分かった。

、、にしても、なんか全体的に仕事の効率が悪い気がする。
次から、時間はかってもっとたくさん書けるようになろう。
はあ、、汗

「マンガの創り方」でマンガをかく16

※この内容がよくわからない方は過去の記事一覧から
『「マンガの創り方」でマンガをかく』1から15をざっとみていただくと理解できると思います。


マンガのネームを書くのが楽しいと言っていましたが、
見事に息詰まりました。苦笑
ああ、やっぱり楽しいだけじゃないよなと思いつつ、
ちょっと現状を把握して何としても克服していきたいなと思います。
↓は自作漫画「やられまん」の第一回目のネームの一部です。

見にくくて(いや醜くて、、)すみません。
でも、本当未熟でまだ自分でもう不完全な事が分かっているネームなので、
ぼやけた原画で良かったです。汗
↓んで下は自分の漫画では無く、他の某プロの漫画家さんの漫画を
セリフとコマだけのネーム風に自分で仕上げたものです。

ストーリーを比べる事は出来ませんが、
プロの漫画家さんのネームと私の漫画のネームを比べると、
なんとなく自分の方がコマの入れ方も、セリフの大きさも、
平たんというか動きが無い気がします。
多分、その理由はまあ、自分の実力不足なんですけど、
ストーリーをどう上手く運ぶかの方に頭が必死で、
コマ割りや、セリフにまで手が回らないみたいです。
第二回目のネームも、
描きたい所から書く戦法でやってみたのですが、
ラストとか、確かに描きたいところはかけるんですが、
描きたいところでもクライマックスの盛り上がるシーンが
実際書いてみたら、2通りの解釈があって、どっちを
描けばいいのかとか、考えていたら、だんだん頭ん中が混乱してきて、
「あり?あたしこのマンガで何かきたかったんだろ?」
というところまできてしまいました。
他にもここは主人公目線で書くべきか、
相手役目線で書くべきかってのも迷いどころで、、、。
んで、こりゃもう一度アイディア出しまで、戻って、
ストーリーを整理したほうがいいなと思って、
いままたラフでアイディアを起こしているところです。
確か、自分がこの「やられまん」という漫画で
描きたかったのは
「自分には誰も愛してくれる人がいないと嘆いていたけれど、
それは自分が選択した(=愛してくれる人を拒絶していた)だけだった。
でも、そんな自分を変える事は出来ない。だから、
今の自分のまま生き続けよう」
みたいな感じだった。
ん=あれ、
いや
「主人公は外見がカッコイイとかそういう表面的なものにしか
価値を見出せないけど、
それでもそんな自分を変えることができないのなら、
表面的なものにしか価値を見出せない俗物の自分をみとめて生きていこう」
だったかなあ?
私がこのマンガで言いたいことって何だ?
カナ(主人公)が俗物の自分を変えたくてさえないカスオ(相手役)
と付き合ったけれど結局、俗物の自分は変えられなくて、
カスオの元を去る話だよね。
うん。
そこは大丈夫。
あとカナは物語の最初も結末も
外見やミーハー的なものにしか価値を見出せないのは変わんないんだけど
結末のカナは、そんな俗物の自分を肯定的に認めて生きる覚悟をしている。
ここも大丈夫・

とにかくこの事を念頭にアイディア出しをして整理しよう。

↓はアイディア出しの時書いてる落書き。雑ですみません。
一つの場面でも主人公視点カスオ視点と多方面に変えて、
描いてみようと思う。
道のりは長いな。落ちつけ自分〜。


マンガの創り方―誰も教えなかったプロのストーリーづくり

マンガの創り方―誰も教えなかったプロのストーリーづくり

 高いモチベーションを保ち続けるのは大変だ、、。

とりあえずここ1週間はネームを描きつつ、
集中線をかいてました。
マンガの進行は一切ブログに書かず、
自分の考えていることを書いていたので、
「ホント口だけ感が出ているブログだよな」と
自省しつつ、
でも、口だけでも言わないと
厳しくしないと変われないとなあとも思いました。
そんな私のブログに(前回の「親を憎むということ」で)
感想をメールしてくださった方がいてうれしかったです。


(あとまだ、以前のやられまんの事に関してメールを頂いた方にはメールしていないです。
やっぱりこっちはネームが完成してからお答えしたくて、、、。
遅くてすみません。)

それで、さっそく集中線の作業に関して
問題点を発見しました。
線をただひたすらきれいに書くという
単調な作業を常に高いモチベーションでやる事が不可能なのです。
下にありますが練習初めに書いた集中線と1週間後に描いた集中線だと、
本来なら、(沢山練習したはずの)1週間後に書いた集中線の方が、上手くなってる筈なのに、
描きたての頃の集中線の方が上手い気がします。
↓初めのほうで書いた集中線

↓1週間後に書いた集中線 線にむらがあって荒い。

それはなぜか?
描きたての頃は、
まだ集中線に慣れていないので、
「こんな難しいの私にできるのかな?」という不安や緊張感脳が刺激されます。
あと、慣れてるものより、初めて経験する作業の方が
「どんなのが出来るのだろう?」とか
「もし成功できたら、私すこしステップアップしたことになる」みたいなわくわく感があって、
難しい分楽しいんですよね。

逆に下手でも慣れてしまった作業は、
つまんない上に脳にも緊張感という刺激が無いので、
腕がなまるようです。

1週間経っても上達しないのは練習が足りないからかもしれませんが、
やっぱり何の脳の刺激もなしに続けるのもあんまり有効的な練習にならないと思います。
昔、美大受験むけの予備校に行っていたとき、授業でのデッサンの他に家でも毎日デッサンしていたのですが、
上手くならなかったんですよ。1年間描き続けても。
んで、それを分析すると、
やっぱただ機械的に書いてたので、
脳がなまって、枚数書いても腕もなまってしまったんだと思います。
だから、その失敗を教訓として考えるなら
脳に適度に刺激がいく練習法の方が良いと考えました。
それで昨日から実践しているのが、
「毎日、少しでも新しいことに挑戦する」です。
昨日普通の集中線を書いたら、
今日はべたフラッシュを書いてみようとか、
明日は、この漫画家さんの絵を真似てみようとか、
そんな風に毎日少しでも前日とは違う事をしてみる。
そうすれば、飽きることはないだろうし、
また、挑戦し続ける事に飽きたり、時間が無い時は、
簡単な集中線とか以前やった技術の復習をやればいいんだとおもいました。


くりかえし練習しないと、出来ない技もあるとは思いますが、
どうやら今の私はそういう同じ作業を毎日できるまで、
成熟していないみたいなので、
そうやって脳に刺激を与えていこうと思います。
1つの技術を集中して練習するよりも、
いろんな技術を1度でも試した経験を増やしていく方が、
最終的に自分の技術の向上になるのではないかと思いました。

あ!あと、巨椋さんが
私は一枚絵はかけるけれど、
漫画絵は描けないからクロッキーで練習したほうがいい
と言ってくださった事を間接的にというか人づてにお聞きしました。
一人では自分の弱点を客観的にみることが出来ないので、
助かりました。
ありがとうございます。
クロッキーもやってみるつもりです。
今年の夏は画力向上強化月間だなあ。


↓ベタが入った集中線。

↓ベタフラッシュ。最強伝説黒沢をまねて書きました

↓マグカップのトレース。今だに曲線を描くのが苦手なので、
線がゆるゆるです。

↓マンガの背景のトレース。線をきれいにかく練習のためにかいてみましたが、
単調で、つまんなかったです。
トレース(写し絵)じゃなくて、絵を見ながら自分の手で当たりつけて書いた方がいいのかもしれません。

オールニートニッポン特別編 怖いお話特集 

昨日、オールニートニッポンの特番の見学に行った。
いつもとは違う場所でいつもとは違う機材で収録したので、
ミキサーが正常に機能しないトラブルが起きて、
普段使っているミキサーを、
事務所(いつも収録している場所)に取りに行った。
今回はほぼ見学でやる仕事がなかったので、
少しでも役にたててうれしかった。

放送の方は、ゲスト山口敏太郎さんがゲストで怖い話特集だった。
特に山口さんの「シンクロニシティ」〜死者からのメッセージ〜
が怖かった。
霊とかは私の場合、
「信じる信じない以前に本当に存在してたら怖くて嫌だ」
タイプだ。
うちの父が理系の教員であるにもかかわらず、
霊番組をみるのが好きでそれをひそかに馬鹿にしていたが、
自分も怖がりながらつい見てしまうので、
少しは信じてるのかもしれない。汗
そういえば、奇跡体験アンビリーバボーとか手相とか占いも馬鹿にしてる割には、
信じてしまう。
私自身の霊体験は別にない。
金縛りによくあうくらい。
そういえば、最近もあった。
知り合いがゲームをしているそばでうたた寝していたら、
知り合いの体ん中から、
モアっと黒い影が飛び出して来て、
それがあたしの中に入った途端、
体中がしびれて金縛りになった。
私はそれで、自分の体が黒い何かに占拠されるのがいやで
出ない声を振り絞って(金縛りの時はしゃべれない)
「出てけ!」って叫んだら、、、
ゲームしてる知り合いがびっくりして「何?!」て反応してきて
そしたらいつのまにか直ってた。
口では「出てけ!」って言ったつもりだけど、
口もしびれて思うように動けなかったので、
「☆※▼!」と謎のうめき声に聞こえて
びっくりしたのだと思う。

その話を知りあいにいったら、
「金縛りは本当かもしれないけど(科学的なほうの金縛り)、影は夢だよ」
と言われた。
私も本当に霊のせいだったらは怖くて耐えられないので影は夢だと思う事にした。
でも金縛りは私の場合毎回変な夢とセットで来るので嫌だ。
例えば、明るい道と真っ暗な道があって、真っ暗な道を選択した途端
金縛りとお経の声と鳥居が見えたりなんか怖い、、。
とりあえず、無理にでも声を出すと金縛りは治るようなので、
今度からは金縛りになったら、「出てけ!」と叫ぼうと思う。

放送が終わった後は、飲み会があって、
本の編集者さんや作家さんのお話が聞けて
とても楽しかった。
挨拶の時とかに、
失礼でなければ、名刺を渡したいなあと考えたけれど、
今はやっぱり、充電期間でマンガを書く方に費やした方がいいように
自分には思えたので、やめた。
しかし、夕方の豪雨のせいか
放送中も放送後も全体的に
頭がガンガンして、なんか貧血状態みたいにボーっとして
気持ちが悪かった。
風邪のひき始めだといけないので、
2日くらい安静にしてよう、、。

親を憎むということ2

前回の「親を憎むということ」で
現在の私は親に対して「憎む」ような強い感情を抱いていないと言った。
でも、だからといって好きな訳ではないし、
思春期が生きづらかったことの原因の一部が親に原因があるという
考えを今のところかえる気はない。
ただ今の自分が今の自分であることは自分のせいというか
自分で選択したことなんだと思う。
確かにまだ、「インナーマザー」的な?絶対的な罪悪感みたいのが
私の頭ん中を支配して、なかなか親の価値観のしがらみ的なもの
が私の行動や考えを否定してきて思うように生きれなくて辛い時はある。
(いや、辛い時の方が多い)
だからそういう部分は親のせいだと思う。

でも、イジメもそうだけど、
親の価値観や性格を真に受けて
それで周りから浮いたのは親のせいだけれど、
そんな自分に気がついていながら、かわることができなかったのは自分のせいだと思う。
毎日のように親に怒られて、自己肯定感を下げられ、「どうせ努力しても私は駄目人間なんだ」
という負のスパイラルに陥れられたのは親のせいだけど、
その負のスパイラルから抜けだす努力をしないのは自分のせいだと思う。
自分のせいというとなんか誤解(結局自己責任論かよ!とかね)を招きそうだな。
なんて言えばいんだろ、親に嫌なことされたのは事実で
されたことに対して嘆いたり、怒ったりするのは絶対必要なんだけど、
親に責任をとれと言っても、
どうせやつらはとってくれないから
結局は自分がわるしか道がないんだと思う。
んで、それは例えば別にニートの人に自立しろって言う訳じゃなくて。
だいたいニートがいきなり、働くのってハードルがあまりにも高すぎるし。
要するに、「今の私が不幸になのは親のせいだ!」と思わなくてすむように
たとえニートでもニートなりに悔いのないように自分のために人生を全うすることだと思う。
例えば、「自分には恋人がいない。異性とうまく接せられないのは
親との関係が駄目だったからだ。親が憎い!」のなら、
やっぱり、頑張って恋人をつくるか
「恋人ができなくても私は私」みたいに駄目な自分を肯定するしかないんだと思う。
そうでないと、いつまでも親が憎くて、自分が辛いから。

繰り返し言うが私は親のことを好きではない。
少なくとも、私が今ニートなのが私のせいで、
コミュニケーションが上手く行ってないのも私のせいだとしても
親が私にひどいことをしたのは親のせいだし(親にもいろいろ事情があったとしても)
やっぱり許せない。
そんな「親を許せない甘えた自分」もやっぱり私の大切な1部分。
ちゃんと、自分の気持ちは尊重してあげたい。
だから、もしいつか自分が経済的自立が可能になれたら、
そんな夢が叶えられたら、
親と縁をきりたいと考えている。(戸籍上の意味では無く、離れて会わないようにするという意味)
縁をきりたいと思うのは、
実は過去の親との関わりだけが原因だけじゃなくて、
現在の親との関わりも原因だったりする。
今の親との生活に限界があるのだ。
私はよくブログで、親の前では良い顔をして、心の内面では死ねと思っている
と書いている。
だから、ブログを読んでる人には
親に自分の考えていることをぶつけてわかりあおうという努力をしないで、
陰でこそこそ愚痴をいう人という印象があるのではないかと思う。


でも、そんな自分でも1度お母さんに反抗したことがある。
母親が「自分だけが辛い辛い」と私たち家族を責めるので、
「私だって学生の頃お母さんに過剰なほど勉強させられて、怒られて
勝手に部屋をあさって、勉強以外の私の書いた絵とか捨てられて、友達と遊ぶこと禁止されて辛かったよ!」
とキレたことがある。
そうしたら「でもあなた勉強してよかったと思うでしょ?あなたのためにやったのよ」みたいなことを言われた。
んで、後日おばあちゃんから電話があって、お母さんを「いじめるのはよしなさい」と怒られた。

おばあちゃんは何もわかっていない。
そのときうちのお母さんは心の病にかかり、
家にいるのが辛くなってずっとおばあちゃん家で療養していた。
おばあちゃんは、お母さんを病ませて実家で療養するまで症状を悪化させた私たちに
「あなた大学で勉強して教養をつけたのに人の心(お母さんの心)もわからないのね」
と嫌味をいった。
なにを馬鹿なことを言ってるんだと思った。
お母さんはお姉ちゃんや私が心の病にかかり通院したとき軽蔑したではないか。
お母さんは「私を心配してくれ」、「大切に扱ってくれ」って態度とるけど
私が病気になって精神科に付き添ってもらってた時、お母さん怒ってたじゃない。
『私がせっかく苦労して育ててあげたのに、
精神科に通うことで、私を責める気なんでしょ』とでも
言いたそうな怒った目つきで私をみて思いっきりため息をついたじゃない。
心を病んだ私には一切心配の声をかけずに。
お姉ちゃんのときもそうだ。
精神科に通うお姉ちゃんを気が狂っているといい
精神科に通う人は心の弱い人といって馬鹿にしたじゃない。

そんなお母さんがいざ心の病にかかったときに
「心配してくれ、敬え」とかいうのはあまりに都合が良すぎるんじゃないかと思う。
「じゃあ、私が辛かった時のことも考えて」という私に対して
自分が犯した罪は認めないのに「いじめないで私を心配して」というのは都合が良すぎると思う。
私をさんざん否定してきたのにどうして、それをなしにして、
お母さんを敬えというのだろうか?
こんなことを書くと、お母さんが精神病になった時、
何にもしなかったように聞こえるがそんなわけではない。
家事全般をかわりにやったし、精神科に通うことを進めた。
お母さんの症状に合いそうな自助グループだって色々調べた。
でも、お母さんは精神科を拒絶した。
「私は心の弱い人間ではないからそんなとこいかない」と。
(その間にもお母さんの症状は悪化ししだいに寝たきりになるようになった)

結局精神科はおばあちゃんの勧めでいけるようになった。
鬱病」と診断された。
うちの母親の中では精神科は
「精神病になる人は心の弱い人だけど、
鬱病は心の病ではないので私は弱い駄目な人間ではない」
という訳のわからない理屈らしい。
んで
実家に帰ったらかえったで、
寂しいらしく
毎日2、3時間延々と「私辛いの。私は鬱病だから心の病気じゃないの」
というほぼ同じ内容の繰り返しと私たちが冷たいからうつ病になった的なことを電話で聞かなくてはならなかった。
(電話で相手するのは義務では「お母さんのためにやれ」とお父さんにたのまれた。)
しかも、家事全般は私とお姉ちゃんの仕事で(お父さんはいつも仕事が忙しいという理由で
家事はやらないし、お母さんの心の病気に関しては本格的には関わろうとしない。)
さらに当時、私とお姉ちゃんは大学の卒業年で卒業するためにいろいろ勉強したり、
就職活動をしていて多忙だった。
そんな辛い状況で学校や入社試験を夕方まで受けて
ヘトヘトになってかえったら、
父親が脱ぎ捨てた靴下を洗濯したり、料理して、アイロンして、
掃除して、ゴミの整理して、洗濯物たたんでもう疲れてるのに、電話の相手しなくちゃいけなくて
それで1日の大半が奪われ、
余った少ない時間で卒業するためにに頑張って勉強してるのに、
少しでもおかあさんに不満を言えば、
おかあさんがおばあちゃんを利用して私たちを一方的に責める。

おばあちゃんもおばあちゃんで、別にお母さんの理屈が正しいから行動してる訳ではない。
おばあちゃんは寂しいのだ。
老後をおじいちゃんとおばあちゃんの二人きりでいるのがさみしくて
娘(お母さん)がちょうど実家に帰ってきてくれたり、
うちのトラブルに関わることで、
日々の退屈な暮らしから目を背けようとしているのだ。
すくなくとも私にはそうにしかみえない。
だって、こっちがなにか言っても一方的にお母さんをかばうんだもの。
お父さんもめんどくさいという理由で、私が何言っても
お母さんの言い分を聞いた方が楽なので私の意見をまともに聞かず一方的に母親の意見を聞く。
そしてお母さんはそんなお父さんやおばあちゃんの気持ちを
意識的にか無意識的にか察知し
何か私たちが責めたりすると、お父さんやおばあちゃんをつかって攻撃する。
そんななにが正しいとかじゃなく、親や親戚の強い権力をもった人たちの私利私欲だけで物事をきめる
システムがうちでは普通で、
どうやっても子供の私の主張はまともに聞いてもらえない。
だから、やっぱり今のシステムが継続する限り、
私は本質的に自分のために生きることができないし、
私の心が崩壊してしまう。
だから、
できれば親とは離れて暮らしたい。
家族という鎖から解き放たれたい。

それをお姉ちゃんにいったら、
「やめた方が良いよ。
だって、いきなり親と縁切ったら、
お母さんショックで狂っちゃうし、
あなたも経済的に苦しくなるよ」と言われた。
たしかにそうかもしれない。
自立するには私に安定した経済力がないと成り立たないし、
おかあさんもショックで自殺して一生罪悪感を背負うのかもしれない。
一時期は、私が家族のもとを出て生きたいと思うと、
「親と離れたいけど、私のせいで憎んだり自殺されたりしたら、
どうしよう!離れたいのに離れられない!」
と不安でがんじがらめになっていた。
でも、それって私のせい?
私のせいで家族が自殺するの?
自殺するのは相手の勝手だと思った。
相手が自分の考えで決めたことで私のせいではないと思った。
(金不足で餓死したなら、だいぶ教育費を頂いていたので、私のせいの部分もあると思うけど)

ただ、それよりも経済力の方が駄目で。
ニートのくせに漫画家なんて目指しちゃってるし、
それでも、今のところ一番私の中では堅実な自立の仕方なんだけど(激甘)。
(●;好きなことなので頑張れる●経歴とか関係ない)
まあ、これは今後の切磋琢磨していろいろ方向転換しつつ、
堅実に自立の道を目指して、親と縁を切れるまでしっかりしたいと思う。
もし、それでも経済的な自立ができなかったら、(こんなご時世なので)
少なくとも、数年は親と一切連絡を取らないという期間を設けたいので、
親と離れる方法を見つけようと思う。
そうやって、一時でも親元を離れないと親子の関係はリセットできないと思うから。

もう私は今の親子関係は続けたくない。
結局「子供のくせに親に向かってなんてこというんだ!」って
子供扱いして対等に扱ってくれないから。
もし関わるなら「親子」じゃなくて「友達」だ。
意見しあえる対等な友達関係なら、少しは関われるような気がする。

だいぶ当時の怒りを思い出して感情的な文章になってしまった気がする。このエピソードは最近思いだしたのでまだ自分の中で整理できてないんだと思う。

インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」

インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」